第2巻:「黒宮」の起源
1.
珍しい名前「黒宮」
2.
「黒宮」の特殊性
なぜ「黒宮」という名前が珍しい名前になるのかを解明
3.
「黒宮」のルーツ(起源)
11.
珍説:黒宮は畔宮だった。
黒宮惣八郎康明の大胆な仮説を紹介。
これまでに出会った多くの人が、「黒宮」という名前を見て「珍しい名前」といいます。子供の頃から使い慣れている我々には、なにがそんなに珍しいのだといい返したくなりますが、確かに尾張を離れると黒宮という名前にはめったに出会いません。私は旅は好きであちらこちら出歩きますが、今までに旅先でであった「黒宮」さんはただ一人。30年前、北海道で汽車の真向かいに座っていたかわいい女の子に名前を聞いたら、「何だおみゃあは佐屋の黒宮か。俺は立田だがや。」ということになってしまいました。
「黒宮」のルーツを探るのがライフワークとおっしゃる黒宮邦彦さんという方がいらっしゃいます。この方はこれからも時々出てくるので、「邦彦氏」とよばしていただきますが、この邦彦氏によれば、全国の「黒宮」姓は尾張にさかのぼることができるそうです。即ち、「黒宮」というのは尾張地域に特有の名前だというのです。
どうして「黒宮」は「珍しい名前」なんでしょう。どうして「黒宮」は尾張以外では見られないのでしょう。
2つの問いに対する答えは同じような気がします。普通の人が名乗らないような特殊な名前だから珍しい。そのような風変わりな名前を名乗る気になった人が尾張にしかいなかった。ということではないでしょうか。
「黒宮」のどこが特殊なのでしょう。
誰にでも思いつく理由は、「黒」という色が悪い。「黒」は「暗い」から派生したといわれるくらいで、すぐに「暗黒」や「悪」を連想する。だから「黒い宮」というのは「暗黒宮殿」、すなわち「悪魔宮殿」のことだから、普通、人名としては避けられるものだということです。
実際、ある中国人に、中国語ではおまえの名前は「悪魔宮殿」という意味になるといわれたことがある。
津島地区の電話帳で見ても、黒田、黒川、黒柳など、自然界や人里にごく普通に見られる物に「黒」がついた物ばかりで、「黒神」だとか、「黒寺」だとか「黒星」などのように、神仏や評価をあらわす言葉と「黒」がくっついた名前はありませんでした。
では、「黒」を他の色に変えたらありふれた名前になるのでしょうか。
「赤宮」、「青宮」、「黄宮」、「茶宮」、「紫宮」。なんかどれも変です。人の名前としてはどれも見つかりません。特に「黄宮」なんてどう読むんだろうと思ってしまいます。
人の名前をはなれて、神社の名前にまで範囲を広げてみたらどうでしょうか。関東には「黄宮」と書いて「きのみや」と読ませる神社があるそうですが、これは「木の宮」の当て字だそうですから色に起源があるわけではないようです。
また、京都に「赤宮神社」がありますが、これは通称「赤の宮さん」が縮まった形のようです。この神社にはお稲荷さんも祀られており、そのため本殿も朱に塗られていたため、「赤の宮さん」と親しみを込めて呼ばれるようになったのだと門前の由緒書にはありました。であれば、全国のお稲荷さんが「赤の宮さん」になってもいいはずなのに、何故かこの名前は他には見られません。いくら愛称だからといっても、お宮さんの名前に色を使うのは何故かはばかられるところがあるようです。
そして、実は「黒宮の大塚」と呼ばれる古墳が岡山県にはあるのです。しかしこの神社の神官に聞いても、その由来は分からなかった(邦彦氏談)ということです。この古墳を発掘した間壁という考古学者は「建物が黒ずんでいたからじゃないか」などと言っていますが、それならば全国の古めかしい神社はすべて「黒宮」となってもいいはずなのにそうはなっていません。
ここでもやはり、お宮さんの名前に色を使うのは何故かはばかられるところがあるということが確認できるのではないでしょうか。
従って、「黒宮」が珍しい理由は、勿論先ほどの「黒=暗黒、悪魔」の連想もあるでしょうが、それに加えて、どうも「宮」の前に「色」をあらわす言葉がつきにくいところもあるからと言えそうです。
「青宮」は「東宮」と同義で「皇太子」をあらわす語のようですが、読みは「せいぐう」です。また、「紫の宮」は中宮や皇后をあらわす語ということですが、となればますます一般人の名前にはなりそうもありませんね。
「朱宮」という名前の違和感は、音にも原因があるような気がします。「しゅ」という音で始まる名前自体が珍しいのではないでしょうか。「朱牟田」という名前ぐらいしか思いつきません。
では、どんな言葉なら「宮」の前についても違和感がないものなんでしょうか。ふたたび津島の電話帳で調べてみました。今度は「宮」で終わる名前を拾い出してみました。
雨宮、天宮、梅宮、大宮、神谷、加宮、小宮、篠宮、武宮、田宮、二宮、野々宮がありました。これ以外に元宮、宇都宮など思い付きます。
これらの名前をグループに分けてみると、
@「形容詞」+「宮」:大宮、小宮
A「名詞」+「宮」:雨宮、天宮、梅宮、篠宮、武宮(竹宮の転?)、田宮、元宮
B「名詞」+「の」+「宮」:二宮、野々宮、宇都宮
このうち、Aの名前はいずれも間に「の」を挿入することができますので、元々は、Bの形であったものが縮まってAの形になっていったのではないでしょうか。
こうしてみると「宮」の前に形容詞がついた名前は2つしかなく、「宮」という語は「飾られる(=修飾)」ことがきらいなようです。「大小」がつけば、たいていは「新旧(古)」もつきそうなものですが、「古宮」はありませんでした。また「新宮」は読みが変わってしまいます。
こうしてみると、私達の名前の中に控えておられる「宮」様は、AとBのグループのように、「何を祭っているのか」つまり、その神社の「祭神」を説明する語や、「所在地」や「スポンサー」なら前においてくれるが、それ以外のお飾りは許してくれない、案外気難しいお方のように思われてきます。
結論:「黒宮」は、2つの理由で珍しい名前になった。
@
戦国の頃、自由に名前を選べた時でも「黒宮」は「暗黒宮殿」「悪魔神社」というひどい意味を連想させるので誰も名乗ろうとしなかった。
A
「宮」という語は、自分が何の神様かを説明する名詞なら前においてくれるが、「大小」以外の形容詞や色の名前はおいてくれない語である。したがって「黒い宮」という構造自体が日本語的ではないので誰も思いつかない。
こういう珍しい名前を、私達の祖先は、おそらく誇りを持って選択し、名乗ってきましたが、私達の祖先はいったいどうしてこんな珍しい名前を名乗ることになったのでしょう。何か理由があるはずです。その起源を見つけたいと思うのですが、そのためには、まず、私たちの祖先がどこから来たのか、その出身地を見つける必要があります。 ここでは、5つの説を紹介しておきます。珍説、奇説様々あります。皆さん自分のルーツのことですから、自分で一番気に入る説をとり、自分なりに理論武装してみてください。
@「後醍醐天皇第一皇子護良親王の末裔にして世々氷室に住す、、、」説
A滋賀県甲西郡黒川村大字宮の「上忍」の出であるという説
B藤原実秀の孫「黒宮四郎左衛門」が黒宮の第一世という説
C吉備の国の「黒宮の大塚」古墳に埋葬されている弥生時代人が祖先という説
D木曽川流域の土着民説
@ 「後醍醐天皇第一皇子護良親王の末裔にして世々氷室に住す、、、」説
最後の説は、山路の黒宮家(許三郎家(本家)と惣助家(新家))に伝わっていた家系図(太平洋戦争空襲で焼失)の冒頭部分が根拠の説です。
もし、家系図が残っていれば、その一つ一つを検証していくことで、かなり正確に、近世の頃まではさかのぼれるのではないかと思いますが、現物が失われてしまった今は確認のしようもありません。(もっとも、佐屋の黒宮さんのところの家系図も出だしは同じだろうと思われますので、そちらを見せてもらえば、江戸時代前半以前の分は回復できるかも知れません。)
A
黒川村大字宮の上忍説
これは東保の黒宮修一さんという黒宮ルーツ研究家の方から聞いたもので、まだ原典にあたって検討していませんので、電話でお話をうかがった時のメモをここに写すにとどめておきます。
「にわもとじ」という人の書いた姓名事典に、黒宮の起源は滋賀県甲賀郡甲西町に昔あった黒川村大字宮の最初と最後をとったものとある。
最初と最後をとって一つの名前を作る?
B
藤原実秀の末裔説
これは立田村山路の黒宮に一直線に結び付くもので、山路の黒宮の南側にある「随順寺」というお寺の開祖藤原実秀の孫が黒宮四郎左衛門だったというものです。(旧「立田村史」、及び「愛知県の地名」) 旧「立田村史」をみてみましょう。「尾張国志 応永甲戌年の創建にして従三位藤原実秀抱寺、清水山西道寺と号し、美濃安八郡牛伏車村にありて真言宗なりき、同二年尾張国春日井郡小牧村に移す。応仁中蓮如上人巡行の時、実秀の孫黒宮四郎左衛門、上人の弟子となり、薙髪(ていはつ)して法名を実恵と名づけられ永正5年11月上旬寺を中島郡河北村に移す。同八年八月阿弥陀の画像を賜ふ。(裏書きに、本願寺釈実如判尾張中島郡長岡庄河北村福泉坊願主実恵とあり)、、、以下略
すっかり有頂天になりますよね。こんなにはっきりと書いてあると。しかも藤原氏の直系ですよ。バンザイ!バンザイ!万歳!漫才!しかも、山路の黒宮家にはこの説を補強する伝承や物が残っているのです。
山路の黒宮家には「御門跡宿泊所」と染め抜いた大きな幔幕があって(現在は中川区昭和橋の天然寺に保管)、代々東本願寺の門跡が東下りをする時には、必ず山路の黒宮家にお泊りになったという話が伝わっている。(黒宮真澄さん) これは東本願寺で容易に事実関係が確認できること。ぜひ確認を
1) 山路の黒宮の家紋は仏教に因縁の深い卍である
黒宮家の家紋は卍である。一部に逆卍と「聞いている」(真澄さん)ところもあるが、実際の物で伝わる家紋で見る限り、山路から分かれた佐屋の黒宮も、立田村周辺の墓所で見られる黒宮姓の家紋も、また、東保の黒宮修一さんのところもすべて卍である。いずれにしても卍は仏教とともに伝来した文字といわれているように仏門との深い関係を示唆する家紋。お寺の住職が黒宮一号なら単純に納得できる。
2)「愛知県の地名」という本にもそう書いてある。
思わず、そうか!といいたくなるのですが、でも、この説には決定的な誤りがあるんです。ハイ。
「尾張志」には「黒宮」とは書いてないのです。「黒田」と書いてあるのです。それを「村史」編集者が「黒宮」と間違えただけのことだったんです。まことにもって「尊師」はあてにならない。
しかし、仮に「村史」の記述が正しかったとしても、よく考えると黒宮の起源は相変わらず分かっていないのです。
1) なぜ実秀の孫が「黒宮」を名乗るのか理由が分からない。零落すればするほど人はより高貴なるものとの結びつきを大事にするのではないか。
上に引いた尾張国志の記述を見ると、このお寺は「創建」された翌年には美濃の安八郡牛伏車村から尾張の小牧村に引っ越していることになるが、とてもお寺そのものが移ったなんて考えられない。おそらく、お寺ではなく、僧侶一人が、あちらの有力者、こちらの有力者を頼って流浪の旅をしていたということだろう。
我々は、「藤原氏の抱え寺」といわれると、つい平安朝の栄華を極めた頃の藤原氏の抱え寺を連想するが、この藤原が15世紀半ばの、室町時代の藤原であることを忘れてはならない。
この時代の貴族達は、所領も何もほとんどなく、食うものにも事欠き、京風にあこがれる田舎武士の間を渡り歩いて食べさせてもらう、惨めな生活を強いられていたのだ。
おそらく、この「藤原実秀」も零落した貴族の一人であった。そして「世が世ならば、麿は、、、嗚呼!」と時代を呪っていたのではないだろうか。
こういう人が「藤原」姓を捨てる理由が私には分からない。それこそまさに飯の種なのに。おそらく、四郎左衛門は、実秀の血は引いていることだろうが、黒宮という名前は祖母方の姓として以前からあったものだろう。
となれば、この記載によって「藤原の血筋」は証明できても、「黒宮」の起源は説明できたことにはならない
2) なんで、「黒宮四郎左衛門」が「剃髪」するの?
お祖父さんの「実秀」の時から「西道寺」住職ならば、四郎左衛門は子供の時から仏門に入っていたのではないか。それをあらためて「薙髪」したということは、実はこの時初めてこのお寺が始まったということではないだろうか。
C
吉備「黒宮の大塚」古墳の弥生時代人説
この説は、夢があって大変結構な説です。従って、この説もうんと掘り下げてみたいと思うのですが、なにぶん文化財である古墳のこと、勝手には掘れません。なぁ〜んちゃって。まじめな話、1809年の伊能忠敬の「測量日記十四」に「尾崎村字黒宮」とあるので、いつからかは分かりませんが、「黒宮」という地名があったわけです。昔の武士は名田の名を自分の「名字」としたのですから、これくらい有力な黒宮姓のルーツ候補はありません。(甫ちゃん、邦彦さん、もっとよく調べてください。ちゃんと地名として載ってるじゃありませんか。ブツブツブツブーツブーツ南無阿弥陀仏、もうええちゅうに。すんまへん。)後は、この地名が黒宮修理が牛頭天王の信託に応えて天王祭の祭事をはじめたとされる1185年以前にまでさかのぼることを確認し、さらに1185年以前にこの地と伊勢の国の市江の庄の両方を領有していた公家なり神社なり、お寺なりを見つければ仮説のお化粧完成です。我らが黒宮一族は、この吉備の荘園で特に治水関連の仕事をしていたのを、その能力をかわれて遠く伊勢の国(市江は昔は伊勢の国だった)まで「出張」させられたとこじつければよいのです。なんだとぉ?同じ真備町の川辺に「美濃」という地名がある?何?岡田藩は美濃に飛領地をもっていて、そこの輪中の民を呼び寄せて小田川・高梁川の治水に当たらせただと?いかんじゃねぇ。逆でしょう。美濃の輪中に人を送ったんでしょう?違うの。そう。美濃から来たの。美濃の方が治水の技術が進んでいたの。そうか、、、、。あっ!!とれぇこといっとったらあかんぜ、おみゃあさん(ふざけたことを言っちゃいけないよ、君)。そりゃ、江戸時代のはなしでがしょ?やっぱりな。いいですか、私は10世紀から12世紀の話をしているのですよ。そのころの吉備といえば、あーた、大の先進国ですよ。一方の伊勢といえば、「こじつけ神話」の正当化のために天照大神をまつる神社を造らなければならなかったとき、ほとんどの土地にすでに強力な神様がいた(つまり有力な部族が存在し、文化があった)ので、喧嘩せずには「こじつけ神話」の神様を祀る神社がつくられなかったんだけど、ここ伊勢の地には強力なやつがいなかった(つまり未開の後進地域だった)ので伊勢神宮を造ったくらいの一大後進地域でっせ。しかも市江はその最北、最東(東は辺境の地でしたね)の地。当然技術は西から東に流れていくんでやんすよ。それにもう一つ、この黒宮の大塚の西北、後月郡には「佐屋」という地名まであるんですよ。これは、すごくにおいますですよ。ハイ。「黒宮の大塚」について手許にある情報をまとめておきます。
1)
国道486号線沿いの小高い丘の頂上にある古墳。全長60mの前方後方墳。頂部に熊野神社、中腹には八幡神社があり、言われなければ古墳とは気づかない。熊野神社神殿の横に竪穴式石室があり、覆い屋根で「保護」されている。この石室の位置が中央から少しずれているので、別の石室もあるのではといわれている。
2)
古くから「大塚」と呼ばれてきている。(2つの神社を建てた人々は、この地が墳丘墓と知りながら神社を建てた?)
3)
「尾崎村字黒宮」という地名が伊能忠敬の測量日記十四に見られるので、文化六年(1809年)には「黒宮」は地名であった。
「黒宮の大塚」の西隣に造成された分譲住宅地入り口に「黒宮団地」の道路標識もある。
4)
いつから「黒宮様」と呼ばれるようになったか不明。
5)
なぜ「黒宮様」なのか誰も知らない。
古くて黒ずんだ建物なのでいつの頃かそう呼び始めた??
(これは倉敷考古館の館長さんの言葉。しかし「黒ずんだ宮」が「黒宮」には普通ならないことはすでに見た。とすれば、「朱塗り」ならぬ「黒塗り」の神社をたてたのだろうか?)
6)
周辺に土着の「黒宮」がいない。
足守に「黒宮」はいるが、これは旧足守藩の家老を務めた「黒宮」の後裔で、初代足守藩主のネネの兄、木下家定について尾張から出ていった黒宮である。(現当主、美喜男さん談)
7)
土地の人々(特に老人達)は「黒宮の大塚」を「黒宮様」と呼んでいる。
「熱田さん」とは言うが「熱田様」とは言わないことを思えば特異な気がするが、真備町のあたりでは、神社はすべからく「○○様」と呼ぶらしい。
真備町ふるさと歴史館発行の「川辺宿めぐり」というB4紙3枚綴じの資料の中に、「用水沿いにある小さな稲荷宮を「ダサー様」と称」すという記述がみられる(強調は筆者)。
黒姫をまつっているから(「これは事実に反する」と邦彦氏)
8)
真備町川辺に「美濃町」という地名がある。その地名の由来について、先の「川辺宿めぐり」は次のように書いている。
「岡田藩の飛領地・美濃の有名な輪中土手の築堤技術を持つ集団の協力を得たことの係わりがあるのではなかろうか。」
となると、この地の治水技術はとるに足らぬものであったのかな??いや、それは近世の話。古代〜中世にかけては、この地方は我が国でも先進地域だ。うん。
9)
1187年日置の荘は頼朝によって「左女牛若宮」(今、京都五条東大路にある若宮八幡宮)に寄進された。
10) この若宮八幡は元々、六条左女牛井にあった源義朝の屋敷内に作られた小さな社だったのを、頼朝
が大きく建て直したもの。すなわち頼朝の氏神ともいうべきものである。−>黒宮は源氏か?
11) 六条左女牛井から祇園祭の山鉾巡行を行う町衆の地域までは歩いて20〜30分の距離。祇園社
(八坂神社は明治以降の名称)までは10分もかからない。
12) 平氏の六波羅も同じような場所にあたる。 黒宮は平氏か?
13) もう一つ、「吾妻鏡」には先の左女牛若宮に寄進された日置の荘の別当に「李厳阿闇梨が別当たる
べき」と書かれているらしいが、これは何者?この人が我らの先祖の可能性は?
このように、ここ「黒宮の大塚」は、「黒宮」姓のルーツとしてはかなり有力な候補といえるのですが、問題の古墳の中に眠っている人と黒宮一族の関係性はどうなんでしょう。
黒宮の娘が嫁いだ先に柴田勝洋という人がいます。この人は学校の先生をしているのですが、大学時代考古学のゼミにいたということで、考古学関係の話になると俄然目が輝きはじめます。その彼に「古墳にまつられている弥生時代の人が黒宮のご先祖様だ」と言ったら大笑いされてしまいました。倉敷考古館の館長はもう少し遠慮がちでしたが、口元に冷笑ともとれる微かな右上がりの湾曲が現れたという報告もあります。
どうやら、古墳の中の弥生人を我らが祖先と言うのは無理があるようですね、、、、。しかし、
山路の黒宮の直系子孫の一人に黒宮甫という人がいます。この人は、実は私の父親なのですが、元社会科教師で、かつてNHKテレビとCBCテレビでそれぞれ30分間も輪中の研究発表をやったこともある人です。(あの時は、私は学校から家まで走って帰ってテレビを見ましたねぇ。不思議な気がしました。家では法螺しか吹かない人が大まじめで話しをしているのですからね。でもあのテレビ何人が見たんだろう?)したがってこの人の発言は、それなりに襟を正して眉に唾して聞かなければいけません。何しろ現職を離れると、他人に信じさせるとか納得させるとかいうことは必要なくなりますから、自分さえ直感的に納得できればそれでよいわけです。
甫ちゃんが、この古墳に登った時、彼の前に現れたのです。弥生時代の人々が。
眼下を東西に流れる小田川。堤に杁(いり)を切る人々、中腹に築かれた倉に米を運びこむ人々、頂に組まれた櫓で物見の者がのんびりあくびをする。後に黒宮の大塚と呼ばれることになるこの丘は、いざという時の砦であり、作物の集積場であるのだ、、、、。
さぁ、みんなも目を閉じよう。そしてゆっくりと、大きく息を吸ってください。はいてください。さぁ、吸ってぇ、、、、、はいてぇ、、、、目を閉じたままぁ、ほら、見えてきたよぉ。わあすごいなあっ!
この先のお話は甫ちゃんに聞いてください。今彼は病気で寝ているのでいくらでも付き合ってくれると思います。甫ちゃんは天国に行ってしまいましたので、なかなかお話をきくことができません。でも、彼はいたずら者だから、夏の日差しの強い時なら黒アゲハに、船で沖を走っていたらクジラやイルカに、時にはからすに見をやつしてあなたをからかいにくるかもしれません。その時は、是非、天から見た黒宮考をきいてみてください。
D木曽川流域の土着民説(珍説、黒宮は畔宮だった。) これは、私の立てた仮説です。先ほど見たように、「宮」という語は、その前には「祭神」や、所在地やスポンサーを説明する名詞はとるが、「形容詞」特に色を表す「形容詞」は嫌うというところから着想したものです。 「黒宮」を字面の通り、「黒い宮」と考える限り、そのような名前をすすんで名乗るものは、実の娘に「たくさん子供を産んで幸せになれよ」という思いを込めて「産子」(うんこ)という名前をつけたがる私のような「おちょけた」やつくらいの者でしょう。 私達黒宮一族の祖先、黒宮修理は、1180年頃に活躍したわけですから、時代は平安が鎌倉に移行しようという時です。 その頃の人々の考え方を思えば、自らを「悪魔宮殿のなにがし」と名乗る武家はただのあほか、名前だけで相手を圧倒したいと願う山師か、あるいは、「クロミヤ」という音に高貴なるものを感じることができた者かのどれかだろうと思います。 我が祖先をただのあほと考えるのはさびしいので、私は先祖は山師であったか、「クロミヤ」という音に尊いものをかんじたかのどちらかだったと思っています。もちろん、山師であったという場合は何も考える必要がありませんので、ここでは「高貴説」を考えます。ここからは、以前に書いていたものを複写してきます。多少文体が変わる点は許してください。
9.
珍説:黒宮は畔宮だった。
「クロミヤ」は実は畦、畔(いずれもクロと読む)に建てられた社のことだった。
国語辞典によると(例の一番大きいやつ)「クロ」は
@ 田と田の間の土を盛り上げた所。田の境
A 小高くなった所。また、ものを小山のように積み上げたもの。
B 田の隅やまわりの耕し残されている部分(島根県)
C モノの端の方(愛知三重)
などの意味で使われた。
これらの「クロ」の語義のうち、@とAは甫の言う「大きな土地」の意味から派生してきたものと考えることができる。
堤防が整備され、未開墾の原野ともいうべき葭原がほとんど消え去ってしまった今、かつて「葭山」と呼ばれた葭の原野は、なかなかイメージしがたいものがあろうが、我らが「山路村」の名前も、まさに山の如く茂る葭の原野に由来するのである。
「このような平野のところに「山路」とは不思議な思いがするであろうが、「地名考」には次のように述べている。
『やま』とは葭山・草山の『やま』にて、茂りたるをいふ。」(「立田村近世絵図集解説」)
(「輪中集落地誌」という本に異説があります。興味のある人は読んでみてください。)
また、輪中の成立は概ね次のように説明される。 川の運ぶ土砂の堆積したところが自然に盛り上がってきたところに葦がはえ、葦が更に多くの土砂をつかみ更に盛り上がる。こうしてできた高台(「自然堤防」と呼ぶ)に人々は住居を構え、近辺の葦原を開墾していく。が、このままでは増水の都度せっかく耕した田畑も、住まいも濁流に流されたり、泥に埋もれたりする。そこで自然堤防を更に高く積み上げ、ぐるりを囲むようになる。それが輪中の起こりだと。
つまり、人工の堤がぐるりに築かれる前の段階において、人々が生活し農耕していた「自然堤防」の端の方は、葭やガマが山のように自生しているまだ耕し残された部分であり、「畔」(くろ)そのものであった。
輪中地帯に住む人々にとっては、この自然堤防上のクロを守ることはまさに死活問題であり、ここに社を建て、出水氾濫から一族と収穫を守ってくれと神に祈願したであろうことは容易に想像がつく。(事実輪中堤の上流側には祠が多く見られる)
市江島の川上側の端近くに祭られている神社といえば、もちろん星の宮である。この星の宮がいつ勧請されたのか、その由来はなにか今手許に資料がないが、そういう公式記録以前にもこの地に神社があったとして何の不思議もない分けで、私は、原初「星の宮」こそが、我らクロミヤ一族の名の起源となった「畔の宮」(くろのみや)であったと考えている。
やがて、時代がうつると、市江島に暮らす人々は「くろみやの衆」と呼ばれるようになった。そして更に時代がうつり、クロミヤの衆が地侍の一党として頭角をあらわすようになった頃、それまで産土の神として崇めていた「くろみや」様にも格式を与える必要があると考えた一族の長は、祠を更に大きく改修し、呼称も「星の宮」と変えた。以来、神社の名前と一族の名前のつながりは失われてしまったが、クロミヤ一族は、産土の神として星の宮を祭りつづけた。メデタシ、メデタシ!
え?それじゃ、何故他の地域に「畔宮」がないんだって?そりゃ、あ〜た、、、。あれでやすよ。輪中地帯、それも本当に地盤の低い海部地方だったればこそ、島の川上側の隅が大事だったんですよ。伊勢湾台風を思い出してくださいよ。このあたりは、昔の堤防を除いて全部水没したじゃありませんか。どうですか、多少は信じてみようという気になりましたか。
私のこの「畔宮」(くろみや)説への確信は、市江祭記によってますます強まるのです。
市江祭記服部本には、牛頭天王の神託が下僕の童を通じて黒宮修理に下った時、「因茲修理驚き一族と議し」とあります。つまり、修理は武家の頭領としては似つかわしくないような優柔不断さで、一族の者たちを呼び集め、相談をしているのです。何を相談したのでしょうか。
この時代のことです。牛頭天王の神託があったとはいえ、産土の神たる「星の宮」を差し置いて天王神社の祭礼を執り行えば、まかり間違えば神の怒りに触れ、一族の滅亡もあるかもしれないと真剣に心配したのではないでしょうか。
そして相談の結果、いきなり天王神社に行くのではなく、まず産土の神たる「星大明神」に奉納し、産土の神のお許しを得て津島に向かうことにしたのではないでしょうか。
こう考えれば、今でも東保の人々が津島に向かう前に必ず星の宮に集まり舞楽を奉納しているわけが非常にすっきりと理解できるのです。
最後に、「佐屋町史 通史」から一節を引用して、仮説の仕上げとしたいと思います。
「黒宮家は東保を本拠とした豪族であり、その領土の砂州の発達した西端に勧請したのが星大明神社であろう。<中略>だから東保の人々が星大明神社で市江車の祭事を行うのだろう。」
(p104)
いかがでしたか皆さん。これだ、という説はありましたか?御自分で調べてみようという気持ちになられた方はいらっしゃいますか?あるいは、これこそが我が家に伝わる黒宮のルーツだというものをお持ちの方はいらっしゃいますか?
幸いにして『黒宮』家は確実に12世紀まではさかのぼれる数少ない家の一つです。大いに想像力を働かせて、限りなく美しくロマンチックな黒宮伝説を創出することも可能です。昔から、家系図だけはどんな大法螺を吹いても許されるもののようですから、一つみんなで大いに楽しんでみませんか。皆さんの参加をお待ちしています。
山路黒宮家惣助流六世当主 黒宮康明