第3巻惣助一族の系譜

 

1.        Part1  惣助物語

2.        Part 2 惣八物語

3.        Part 3 一郎物語

Part 4甫物語

27.    1930年(昭和5年)  2つの結婚

28.                          寿夫

29.    1932年(昭和7年)  甫小学生になる

30.    1936年(昭和11年) 惣八永眠

31.    1936年(昭和11年) 甫家督相続

32.    1938年(昭和13年) 甫光州師範学校に入学す

33.    1940年(昭和15年) 孝彦誕生

34.    1943年(昭和18年) 寿一婿養子に出る

35.    1943年(昭和18年) 甫平壌師範学校本科入学

36.    1944年(昭和19年) 雅子誕生

37.    1945年(昭和20年) 敗戦

38.               甫召集さる

39.               南川守備隊配属

40.               ソ連軍からの脱出

41.               儀政府の山狩り

42.               ソウルそして日本へ

43.    1945年(昭和20年) 津島のみのえさん

44.    1946年(昭和21年)  甫就職

45.    1947年(昭和22年) 甫の結婚

46.               松本茂夫

47.               上林くに

48.               茂夫の再婚

49.               甫と静枝の出会い

50.               甫と静枝の新婚生活

51.    1952(昭和27)  甫名古屋市教委へ

52.               甫と家

53.    200033日   甫永眠

 

 

Part 4甫物語

 

27.    1930年(昭和5) 2つの結婚

 一郎が死んでから半年後の8月惣八の二女寿枝、上甲久吉と結婚。「二十歳ばば」という表現があった当時としては晩婚の部類に入る22歳での結婚。しかし、その後の寿枝は幸せを絵に描いたような生活だったという。(雅子談)

 もう一つの結婚は、長男一郎の未亡人サワノと三男寿夫との結婚である。

 この結婚、サワノが望んだわけではなかった。

 この結婚、寿夫が望んだわけではなかった。

 この結婚、惣八が、甫の将来を思い、山路の黒宮の血の流れを思い、家長として取り決めたものであった。

 一郎との結婚において仲人の労をとってくれた永富さんの奥さんのところへ、再婚の報告にサワノが来た時のことを芳枝さんは鮮明に覚えているという。

「泣いていたわ、サワノ姉さん。亡くなった主人のことが忘れられんちゅうて。そうだったの、死んでからたった半年しかたってなかったの。そりゃ酷いわよねぇ。」

 サワノ自身は、後に甫の嫁静枝に語っている。

  「甫ちゃんのために黒宮の家を出れんかった。」

 つまり、惣八は、総領息子の一郎の息子には、継ぐべき財産はなくとも、黒宮の名前だけは継がせたかったということだろうか、当人達はまったく望んでいないにもかかわらず、嫁のサワノと三男の寿夫に「甫のために」結婚せいと命じたのである。

 私だったら、絶対に断ったようなお話ではあるが、時代なのだろうか、又、実際子供一人抱えてどう生きていけばよいのか、お嬢様育ちのサワノには分からなかったのだろう。あるいは、この惣八の命令は一面、救いであったかもしれない。サワノは泣きながらも寿夫のところに嫁いでいく。

 甫には、母に手をひかれて茂朱(ムジュ)へ向かう道中が鮮やかな印象として残っているという。また、いずれ本人に語ってもらおう。

 一方の寿夫、子供の頃からお調子者であったそうだが、さすがに、新婦と「息子」を初めて迎えた時は「あいまいな表情」を浮かべていたようだ(甫談)。しかし、彼も侍だったのだろう。そうでなければ、いかに美人であったにせよ、いかに家長の命令であったにせよ、いかに甥を可愛がっていたにせよ、いまだ身も心も喪に服しているサワノを妻として迎え入れることなどできないことだ。

 「あの時の『とっちゃん』(寿夫の愛称)のような大きさ、義侠心が俺にあるかといえば、多分ないだろうなぁ。」(甫談) 

 家族構成:

  戸主:惣八(50歳)                       三男:寿夫(22歳)

   内縁の妻:すずこ(?歳)                   三男の妻:サワノ(22歳)

  四男:寿一(13歳)      長男の長男:甫(4歳)   目次へ

28.    寿夫

 寿夫は、私にとっては父方のただ一人のお祖父さんである。正直、思春期も終わる頃まで、私はこの人が本当のお祖父さんだと思っていた。愉快な人だった。病気で長い間寝たきりであったが、それが治ってからは元気そのもので、佐屋から弥富、そして立田を所せましと自転車で走りまわっていた。鼻歌替わりに讃美歌を歌いながら。

 このお祖父さんを甫は、「B型の大将。あえて波乱を求める人。いたずらが大好きな人」と回想する。実際、彼は若い頃からひょうきん者だったようだ。ふたたび美代子さん登場。

 「とっちゃんかね。ひょうきんだったよ。お祖母さんとこ(すなわち山路の家)から中学(現津島高校)に通っとったがね。学校の帰りに毎日うち(佐屋町宅地の石原家)によってたね。真っ直ぐ帰らず、わざわざ三角形の2辺を通って帰ったんだね。学校祭の時は応援団長なんかやっとって、それをうちでやってみせてくれるんだわ。こうやって。(と腕を大きく振って応援団のしぐさをする)美男子だったよ。」

 あのお祖父さんが「ひょうきん」だというのは素直に聞こう。しかしあのお祖父さんが美男子??

 実に意外だと思うのだが、この点は引頭さんも同じことを言っていた。

 「でも、美男子で優しかったから、弟さんは。」

 このとっちゃん、結婚した時は茂朱(ムジュ)で巡査をしていたが、いきなり子供までできたものだから、試験を受け、昇格し、全州の警察本部勤務となる。引頭さんの話では「特高刑事」だったそうだ。おそらくこの仕事、寿夫の性格には合わないものだったのだろう、やがて光州西中学の教練教師の口を見つけて光州に移る。

 彼がどのような教師であったか、知る由もないが、後に韓国の国防長官となった教え子(鄭絡赫氏)から是非遊びに来てくれと招待されているから、少なくとも一人の生徒の心には鮮明な印象を残すことができたのだろう。     目次へ

36.    1932年(昭和7年) 甫小学生になる

義父寿夫の転勤にともない、甫は全州尋常小学校に入学。進藤先生という素晴らしい担任との出会いがあった。甫が師範への進学を決意する契機ともなった先生であった。50年後甫は妻静枝とともにここ全州尋常小学校を訪れ、小1の時の通学路を歩いた時も鮮やかに進藤先生の顔がよみがえってきたという。

 素晴らしい先生に恵まれ、順調に過ぎていくかと思われた小学校生活だが、すぐに大きな転機が訪れる。

 母サワノが腎臓病にかかり、転地療法を試みることになったのだ。そのため甫は祖父惣八のもとに預けられることになった。これが、いつから始まったのか、今では甫の記憶も定かではなくなっているが、「惣八っぁんとは3年つきあった」と言ったこともあるので、おそらくは小2から小4までの間に何回か預けられたのだろう。

 当事、惣八はお鈴という、津島でなじみになった芸者と同棲していたが、義父寿夫は、以前の継母おふささんのこともあってか、この惣八夫妻のところにあまり寄り付かなくなっていた。そういう周囲の大人達の心が幼い甫に影を落さぬわけがない。惣八は惣八なりに甫に愛を注ぐが、おそらく甫は惣八に対してなじみ切れないものを感じていたのではないだろうか。すきをぬすんでは横須の祖父母のところまで、1里の道を歩いていっていた。

 当事、サワノの養父母、横須才次郎・ウワ夫妻は統営の海辺のケンノリョウというところに住み、才次郎は多島海で漁師をしており、ウワは豆腐屋を営み家計を助けていた。

 いつのことか、本人は小4の夏休みと言っているが、おそらくそれよりは前に、甫は全州から統営まで汽車で訪ねていく。駅で出迎えてくれたウワは、甫を見つけると、傍目もかまわず「やれかわいやのぉ!」と大きな声で抱きしめてくる。

 ここまで率直であけっぴろげな愛情表現、小3にしろ、小4にしろ当時の甫には面映ゆいものもあっただろうが、おそらく父の死以来、いつも心のどこかに抱えていた漠たる不安を、この時初めて忘れることができたのではないだろうか。

 横須才次郎とウワの愛は、その時からずっと今日まで変わらず甫を包むことができるほど大きく深いものだった。

 サワノの体調は好転と悪化を再三繰り返し、その都度甫は全州の小学校と統営の小学校の間をいったり来り、当然、周囲の子供たちとも十分にはなじみ切れない、どこか引込み思案の子になっていたのではないだろうか。

 そんな甫に、一人の教師が無神経な言葉を吐く。

 「黒宮、またこっちにきたんか。全州へいったり、統営に来たり、まるでコウモリみたいなやっちゃなお前は。」

 あるいは、この教師は親愛の表現のつもりだったかもしれない。しかし、甫はこの言葉に耐え切れず、ケンノリョウの祖父母のところに逃げ込んでいった。

 惣八が迎えに来ると、その時は帰るが、学校にいくふりをしてまたケンノリョウに遊びにいく。完全な不登校児である。大人達も最初は、何とか学校にいかせようと努力するが、やがてあきらめ、サワノが回復し戻ってくるまでは横須の家においておくことにした。

 ケンノリョウでの生活を、「そりゃ、極楽だったッ!」と甫は回想する。

毎日3尺四方で1尺の深さの豆腐のガンガンに乗って湾内をこぎまわっとった。きまって岸にいる朝鮮人が「ハージメチャン、アブナイ、アブナイ」と声をかけてくるが、かまわず手でこぎまくっとった。ホーラ面白かった。

 甫が船に乗る喜びを知ったのもここでの話。当時才次郎が乗っていた漁船は、和式の帆船で、外形は丸木舟に近い船だったという。どうやら小さなキールもついていたようで、風上に進むこともできたらしい。

 才次郎にくっついて多島海を帆走し、イリコを干す浜では寝転んで青い空を見つめ、イリコを市場に持ち込む競争では風上に間切って進むヨットの醍醐味を満喫し、夕暮れの湾内で指釣りを楽しむ。くたくたになって帰って食べる飯のうまいこと、うまいこと。

 才次郎やウワに対する甫の信頼はよほど強いものがあったのだろう。才次郎が彼に泳ぎを教えるのに、体をひもで結わえて海にほうりこんだそうだが、それも甫には楽しい思いでの一つとなっている。

 ケンノリョウでの楽しい思いでが、後に甫を海へといざなうことになる。戦後、立田南部小学校福原分校の教師となった甫は、学校所有の和船に筵を帆がわりに押し立てて強風の木曽川に乗り出すという冒険をしたり(最初は、順調に走ったそうだが、やがてバランスを失い転覆、当時としては極めて貴重な学校所有の自転車を木曽川に沈めたという)、娘婿柴田勝洋とともに小型船舶の操縦士免許をとって長良川・木曽川・伊勢湾をモーターボートや小型ヨットで遊んだりすることになる。

 ケンノリョウでの楽しい生活は、母サワノの健康回復とともに終わる。

 「甫ちゃん、あなたも来年は、5年生。そろそろ中学校への進学を考えなければいけないでしょう。四年生までは、仕方がない。5年生になったらちゃんと勉強しなさい。

 確かに、これまで学校を休んでたところは大変じゃろうけど、あの野口英世博士は独学で偉くなったんよ。あんたのお父さんも、家庭の事情で学校は行けんかったけど、独学でエスペラント語も朝鮮語も算盤も何でもできる人じゃった。お母さん尊敬しちょった。甫ちゃん、あんたにでけんはずがない。やりなさい。」

 おそらくこの時ばかりは、いつもは垂れているサワノの目も釣りあがっていたことだろう。素直に「よーし、おれも野口博士のようになろう」と決意する甫であった。    目次へ

37.    1936(昭和11年)912日午後67分 惣八永眠す

 朝鮮慶尚南道統営郡統営邑吉野町239番地において死亡。同居者黒宮寿夫届出同日受付

とあるが、スズコさんと彼女の娘はどこにいったのだろうか。

 この系譜を書きながらずっと思っていることがある。惣八さん、あなたがしたことが見えません。でも私はあなたに感謝します。あなたが寿夫お祖父さんにサワノお祖母さんと甫ちゃんの世話をするよう命じてくれたから、甫の今日があり、私も姉もこの世に生を受けることができたのだから。

38.    1936(昭和11年)912日 甫家督相続

 昭和拾壱年九月拾弐日前戸主惣八死亡ニヨリ家督相続親権ヲ行フ母黒宮サワノ届出同年拾月弐日受付

 家族構成

 戸主:黒宮甫(10歳)                                     継父:寿夫(29歳)

  母:サワノ(29歳)

 叔父:寿一(20歳)           目次へ

39.    1938(昭和13年) 甫光州師範学校に入学す

5と小6、病気の治った母のもとでようやく落ち着いて勉強に励んだ甫は、中学校と師範学校の両方に合格する。中学に進めという母の言葉はあったが、小学校1年生の担任の進藤先生の感化もあり師範に進む。

 光州師範は、甫達が1期生であり、「先輩」などといううっとうしい輩は一人もいなかったため、彼ら1期生達は、卒業までの5年間「肩で風切って」キャンパスを闊歩する。

 時代は、開戦直後、教師達もまだ理想に燃えることができた時代であった。校長は東京高等師範出の藤沢秀三郎、高等文官試験に合格した「勅任官」、それも文部と法務の2つをパスした秀才中の秀才、30歳代の若さで既に校長というこの人が生っ粋のリベラリスト。最上級生達(つまり1期生)には恐いものは何もなかったという。

 そういう自由な雰囲気があったればこそであろうか、甫が3年生の時、寮生を中心にストが起こる。体育の教師で寮の舎監長をしていた人物が朝鮮人に対する差別的発言を行ったことがきっかけであった。戦時中ということを考えれば、こういうストが起こったこと自体が画期的である。

 いずれにせよ、このストは、中心となった十数名の生徒の退学処分で幕を閉じるが、この退学となった生徒の中に、当時の「大隊長」(今で言えば生徒会長にあたる。概ね成績が1番の学生を校長が任命する)金英国が入っていた。あるいは、甫よりも成績のよい朝鮮人もいたかもしれない(甫は自分が金英国の次に成績がよかったと威張っている)が、こういうストの後では、日本人を大隊長にすべしという判断も働いたことであろう、甫は800人の生徒達に号令をかける「大隊長」になったのである。

 思えば、不登校児がよくぞここまできたものと母サワノは涙するのであった。ウッ、ウッウッ。(これは私の想像)

 以後、卒業まで甫は大隊長を務めることとなった。    目次へ

40.    1940(昭和15年) 孝彦誕生

   朝鮮全羅南道光州○楼紋町114番地において出生、父黒宮寿夫届出

41.    1943年(昭和18年) 寿一婿養子に出る

和歌山県西牟礼群日置町大字日置860番地山下正一養女ミツと婿養子縁組み婚姻届出

42.    1943(昭和18年) 甫平壌師範学校本科入学

平壌師範での2年半は勤労奉仕に明け暮れた2年半であった。ほぼ同世代の者ばかりであった光州師範とは違って、本科3年コースには軍隊上がりの者や、既に教職経験を持つ者など30歳近い者もかなりいた。こういう幅広い年齢層の者達の中で、甫は小学校以来はじめて「上級生」的存在との共同生活を体験するが、幸い彼のクラスの級長の人物がよく、彼は大いに助けられたという。

 この平壌師範時代下宿していたのが松本茂夫の家である。西尾出身の茂夫は山路の「黒宮」は、明治用水の恩人として知っていたようだ。下宿とはいっても、下宿代は払わなかったようである。

 この頃、静枝は平壌にはおらず、いつ二人の出会いがあったかは、よく分かっていない。

43.    1944年(昭和19年) 雅子誕生        目次へ

   朝鮮京畿道高陽郡纛島面纛島里拾四番地において出生父黒宮寿夫届出

44.    1945年(昭和20年) 敗戦

敗戦時黒宮家の人々はどこにいたのだろう。

 サワノは孝彦、雅子とともにソウルの宿舎、寿夫は応召しており(少尉)横浜に駐屯、甫も応召し北鮮の南川にいたという。

 寿夫は、除隊手続き終了後すぐに汽車と連絡船を乗り継ぎなんなくソウルのサワノのもとに帰る。子供の頃、母から引き上げの苦労をさんざん聞かされていた私には、どうして横浜からソウルに行けたのか不思議な気がしたが、引き揚げが大変だったのは北にいた人々の話らしい。南は、米軍の対ソ連政策もあって、日本軍の武装解除も急激には行われなかったという。

 ということは即ち、北にいた甫のソウルまでの旅はそれなりに大変なものであったということである。                      目次へ

45.    昭和20年1945年)甫召集される

この年の7月10日、平壌師範本科三年に在学中の始めに召集令状が届く。直ちに入隊。そして野砲部隊配属される。7月14日に特別甲種幹部候補生の試験を受験し、合格。その為一度除隊。次の司令を待つよう命令が出る。ために甫は一度ソウルの母サワノのところに帰還する。2年半ぶりに母と出会って甫は驚く。小さな赤ん坊がハイハイをしたり、両手を広げて「飛行機!飛行機!」をしたりしているのだ。妹雅子との初対面である。家との連絡もほとんどとっていなかった甫は、雅子が生まれたことすら知らずにいたのだ。

 幹部候補生といえば聞こえがいいが、軍隊で一番死ぬ確率の高いのは尉官クラスの若き将校達である。若さゆえの勇気は恐怖の味を知らぬ分、無謀な行動をとらせる。また、恐怖の味を覚えた後でも、小隊長という立場ゆえに、常に突撃の先陣を切らねばならぬ。物陰に潜む狙撃兵がまず狙うのも、腰に軍刀をぶらさげた将校達である。(頭がなくなった群れを料理するのはたやすいことだ。)

 そういう者になる道をとった長男をサワノはどんな気持ちで迎えたのだろうか。 

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46.    南川守備隊配属

 8月9日、日ソ国交断絶がなるや、平壌の朝鮮師団司令部より、原隊への復帰命令が届く。甫は8月13日平壌の松本の家に顔を出し、一通りの挨拶を済ますと師団司令部に出頭、そのまま第9中隊に配属された。階級は二等兵のままである。

 築29123部隊第9中隊は各中隊から選抜された兵士45名で構成され、指揮するは、横浜高商出のインテリ、石川中隊長。面白いことに、この45名のなんと三分の一が幹部候補生試験に合格し、新たな配属先が指定されるのを待っていた者達であった。おそらく、戦争の最終局面のこの時期には、実戦においてただのお荷物にしかならない見習い士官(将来の指導者育成という先行投資)として使うよりも、二等兵という、より確実な戦力として使おうということだったろう。いずれにせよ、この45名は、石川中隊長の指揮の下、翌14日には現在の北朝鮮南部の南川(なんせん)に配属された。

 南川には大きな陸軍倉庫があり、その警護のため師団司令部直属の守備大隊が配備されていたのだ。その時の守備大隊は、混成部隊であった。混成部隊といえば聞こえがよいが、その実態は、1000人位の古年次兵(予備役から現役に組み入れられた古参兵)の寄せ集め。そしてその頂点には、学校の教室から駆り出されたばかりの元教員がにわか仕立ての大隊長として赴任していた。

 石川中隊が赴任したその翌日には日本は敗戦しているのだが、敗戦、即ち戦争が終わったからといって、そのまま「解散」というわけにはいかなかったらしい。何よりもまだまだ戦争が終わったという実感がない。ロシア軍は北満の関東軍制圧に主力を注いでいたのか、朝鮮に差し向けられた兵力は、朝鮮師団司令部がその気になれば十分対抗できる程度のものであったという。しかし師団司令部は動かない。自分の名前で何か事を決するということは、日本の文化にはない。すべてが役職名の下に決せられ、指示され、実行される。そこには個人の責任はない。役職の責任があるだけだ。だから、どんな不祥事を起こしてもその役職を辞すればそれ以上の責任追及がなされることは、よほどのことでもない限り、ない。

 (逆に、一個人としてはとてもできないような破廉恥な行為でも、職務遂行のためとあれば平気でやってしまうことは、日栄の社員、731部隊、そして戦地で捕虜の首をはねた数多の将校達が証明している。)

 言葉をかえれば、敗戦の詔が出た後は、師団司令部から何か命令が出されるということはありえないことだ。師団長も果たして自分が師団長であるか否か、自分が命令を出せる立場にいるかいなかを判断できない状況に追い込まれていたのだから。

 しかし、現場にはまだ隊長を頂点に初年兵を最低辺にした階級ピラミッドが確かに存在していた。

 日本が戦争に敗れたとはいえ、新兵や二等兵達には、命令なしに原隊を離れることは即ち脱走であり、とてもできる相談ではない。それを究極の形で示してくれたのが横井正一さんであり、小野田さんであった。(小野田さんは少尉ではあったが、同じことだ)

 二等兵や下士官に言わせれば、自分らの任務は考えることではなく、命令通りに動くことであり、こういう非常時に判断を下すことこそが、将校の任務ということになる。

 しかし、南川守備隊大隊長はその判断を下すことができなかった。敗戦というどんな軍務マニュアルにも書かれていない状況において、何をどうすることが正しいことなのか、彼にはまったく判断できない。

 そんな大隊長に対し、石川中隊長は繰り返し、部隊全員を引き連れて南に逃げましょう。仮に道中ロシア軍と遭遇しても負けるはずがない。師団司令部は既に解散しており、命令など来るはずがない。したがってここは自主的判断で部隊を解散し、南に向かうべきであると提案するが、大隊長は判断・決断することを拒否。ひたすら師団司令部からの命令を待つのであった。

 守備隊が、進行してきたソ連軍に投降したのは敗戦の玉音放送から1ヶ月後の9月15日のこと。実に1ヶ月の長きに渡る究極の優柔不断である。

 そして彼の優柔不断、いや、現場の指揮官に全責任を負わせるのはあまりに酷ではあるが、自分一人が目立つ(英語で言えばto stand out即ち「(自分の帰属する集団の中で)外に立つ」)ことを悪徳と教える日本の教育に骨の髄まで汚染されていた教師上がりのにわか大隊長なればこその優柔不断と、ただ一度の「ガーザー耐えがたきを耐えザーザーピーピー」放送だけで、後は、具体的な指示命令を一切発することなくひたすら自己の保身に走った、時の権力者達の無責任とが、南川守備隊1000名のシベリア抑留を作り出したのだ。

 この1ヶ月の間に下士官以下の兵達の間で語られていた話といえば、何せ予備役から急遽呼び集められた「混成部隊」のことである。「あー、戦争が終わってよかった。これで女房子供のところに帰れる。」といった話ばかり。まるで最初に毒ガス処刑場に送り込まれたユダヤ人のようなもの。誰一人、極寒の地シベリアの凍土の中でミイラと成り果てる将来を予見していた者はいなかったことだろう。

 石川中隊長は違った。

 9月15日、部隊が2000人規模のソ連軍大隊に投降するや、翌16日、彼は自分の中隊所属の兵45名を呼集し、彼の考えを述べる。

 

 

「戦争は終わった。日本は、この戦争に負け、平壌の師団司令部は既に解散しているに違いない。その証拠に、1ヶ月にもなるのに、いまだに司令部からの命令は一切届いてはいない。私は大隊長に対して、ただ師団司令部からの命令を待つことが部隊にとっては自殺行為に等しいことを説いたが、残念ながら聞き入れてはもらえず、こうしてロシア軍に投降することとあいなった。もし、このままソ連軍の捕虜としてとどまれば、我々はロシア革命の時の貴族や中産階級と同じ運命をたどることになるだろう。即ち、死ぬまでシベリアで奴隷として働かされるのだ。それを避ける道は一つ。米軍支配下のソウルに脱出することである。

 お前達は、部隊長の命令なしに部隊を離れることになるが、戦争に負けた今、日本には軍隊そのものがもうないのだから、部隊もくそもない。仮に軍隊があったとしても、お前達は私の命令に従うだけだから、お前達が部隊を放棄しても、なんの罪に問われることもない。それは私が保証する。

 問題は、いかにして、この守備隊から離れるかだ。それについては私に考えがある。無事、38度線を越えたら、全員ソウルの大和旅館に集合する。大和には、私がこの陸軍倉庫の米を18俵送っておいたから、お前達の食い扶持はまったく心配する必要がない。

お前達は、明日の夜までに、私とともにここから脱走するか、それともここに留まるか、それを決めてほしい。そしてもう一つ、行くにせよ、留まるにせよ、絶対に誰にも言うな。いいな。」

 

 中隊は、16、17日の2日間で、段取りを取り決め、決断し、18日の白昼に脱走が行われた。

47.    ソ連軍からの脱出                目次へ

 石川中隊は全員が腕に「公用」腕章をつけ、肩に荷物を担ぎ、兵舎前に集合、整列する。中隊長は、曹長、特務曹長に後を託し、自分はトイレで、かねて用意の民服に着替え、トイレの脇から兵舎の外へ出た。

 曹長と特務曹長は営門を警護しているロシア兵に駆け寄る。一瞬緊張するロシア兵に曹長はぱっと敬礼し、たばこを2本取り出し、一本はロシア兵に、もう一本は自分がくわえ、身振りでマッチを貸してくれという。

 こうして曹長が衛兵達の注意をそらしている間に、特務曹長が号令をかける。

 「石川中隊、右向け右。前へ進め!」

 ザッザッザッザッ、腿を高く上げ、右腕を大きく振って歩調をとって中隊は行進を始める。やがて営門。それを眼の端に入れた軍曹は、再びロシア兵に敬礼をし、歩調を合わせて中隊に合流。ザッザッと、45名全員が堂々と足並みそろえて、ロシア軍からの脱走に成功したのであった。

 ロシア兵達の視界から離れるや、「ソウルについたら大和旅館に集合」を再確認し、中隊は解散。それぞれが、中隊長が事前に指示していた民家に立ち寄り、これまた中隊長が用意しておいた民服に着替え、各自が三々五々ソウルを目指して、南下する。

 南川から38度線までは40キロの道のりである。この40キロを走破するのに、何と十日かかっている。最初は各自離れての逃避行であったが、いつのまにか2人、3人のグループとなり、最後は全員がかたまって行軍した。

 中隊が38度線地帯の真っ只中の農家に差し掛かると、農夫が彼らに声をかける。

 「ロ助から逃げるのか。お前達日本人もひどいことしたが、今度やってきたロシアの奴等は、もっとひどい。こういう狼のようなやからがこの国をどうするのかを考えると、実に嘆かわしいことだ。」

 彼は、こう言って、45名の兵隊に鶏を食べさせてくれた。    目次へ

48.    儀政府の山狩り

 石川中隊の本当の危機は、38度線を越えたところでやってきた。

 北緯38度線を越え、儀政府にさしかかった時、一件の民家があった。その民家は、外見といい、開け放たれた窓から見える家具といい、表に干してある洗濯物といい、そして中に見える人の顔といいすべてが日本的であった。

 「これは日本人の家だ」と見習い士官が戸口にかけより、ノックしながら「もしもし」と声をかけた。すると中から現われた男が

 「イルボニン!」(日本人)と大声で言いながら見習い士官の胸ぐらをグイとつかんだ。驚いたのは見習い士官。思わず筵にくるんでいた日本刀を抜き放つ。それが一緒に行動している中隊の者達をどれほどの危険にさらすことになるかなどまるで念頭にない。ただの新兵の行動ではあったが、それも「見習い」であればやむを得ないことではあっただろう。

 もちろんその朝鮮人は刀の光景に驚き、つかんでいた手を放す。その隙にこの見習い士官は仲間の日本兵の所に逃げもどるが、おさまらないのはダンビラを突きつけられた朝鮮人である。

 日本兵が、日本刀を抜いて襲いかかってきた、と村中にふれまわる。

 その村での騒動を遠目に見ていた曹長と特務曹長、いずれも歴戦の勇である。冷静に状況を見極め、

 「あの山の頂上で落ち合おう。全員散開して頂上を目指せ。」と指示をとばし脱兎の如くかけ始める。

 甫も、「あの時は、走った、走った」と唾をとばして語るほど走りに走ったそうだ。

 全員が頂上に集合し、麓を見ていると、村中の人々が総出で山狩りを始めるのが見えた。「国家安全」とかかれた「国防提灯」が日本兵が狩り立てるという皮肉な光景であった。

 幸いなことに、村人達も、どうやら山に逃げ込んだ日本兵の一団はかなりの数らしい、うっかり近寄ると逆に怪我をするかもしれないと思ったようで、頂上までは近寄らず、そのうちそれぞれの家に帰っていった。

 曹長は、危機が確実に去ったことを確認した上で、中隊を次の山の頂まで誘導し、そこで野営をした。

 この儀政府での騒動の後は、特に大きな事件もなく一行は無事ソウルの町に入る。  目次へ

49.    ソウル、そして日本へ

 ソウルが近づくにつれ、甫達の目に、異様な光景が入ってくる。

 行き交う日本兵が、いずれも武装しているのだ。先にも書いたが、南は、米軍の対ソ連政策もあって、日本軍の武装解除はまだまだされていなかったのである。

 それを知った石川中隊は、全員隊列を組み、件の見習い士官殿は再び軍刀を腰につり、歩調をとって大和旅館に向かったのである。

 大和旅館に中隊が到着した時、真っ先に出迎えてくれたのが石川中隊長その人であった。いきなり45名の新客、それも米18俵の現物で宿泊代前納の脱走兵達がついたのである。大和旅館は上を下への大騒ぎ。その騒ぎがおさまり少し落ち着いたところで中隊長が甫に声をかける。

「黒宮、お前おれと一緒に日本で商売せんか?」

「ありがとうございます。しかし自分はソウルに家族がおりますので、そこへ帰りたいと思います。いずれ日本に帰り、またお会いできるようであれば、その時は宜しくお願いしたいとは思いますが、今は家族の許に帰ります。本当に御世話になりました。」と中隊長に別れを告げ、甫はトクソンのサワノの許へと帰った。

 甫が石川中隊に配属になっていなければ、私も姉の恭子もこの世に生を受けることはなかった。それを思えば、石川中隊長には大いに感謝したいと思う。

 そして、本来ならばその場に居合わせた将校がなさなければならない判断、指示をいかなる困難の中においても冷静に、適確に出し続けた曹長、特務曹長にも大いに感謝したい。

 

 サワノは、この長男のところに一家5人が集結するや、全員一緒にプサンまでは貨物車で、プサンから博多は日本海軍の快速艇ですんなりと帰ることができたという。

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50.    1945年(昭和20年) 津島のみのえさん

 12月日本に帰りついた寿夫一家は、惣八の義理の妹、伊藤みのえさんのところに世話になる。みのえさんは、津たが最初の結婚で生んだ娘である。

51.    1946(昭和21年)9月 甫就職す

    黒宮甫愛知県海部郡立田村立立田南部小学校就職

 甫は最初「助教」として採用され、そして半年後に「地方教官」に任ぜられている。

 昭和279月、名古屋市の教育委員会に移り、以後60歳の定年退職まで名古屋市に勤務する。

 以後の勤務校を以下に列記する

 昭和27年 市立老松小学校                          昭和48年 市立筒井小学校(教頭)

 昭和31年 名古屋市教育研究員                   昭和51年 市立江西小学校(教頭)

 昭和32年 市立千早小学校                          昭和54年 市立正色小学校(校長)

 昭和38年 市立豊田小学校(教務主任)     昭和57年 市立大手小学校(校長)

                                                                                     昭和60年 退職

52.    1947年(昭和22年) 甫、松本静枝と結婚          目次へ

 昭和221023日、黒宮甫は、平壌時代下宿していた松本家の長女、静枝と名古屋市の出雲神社別院でめでたく挙式。

 甫は卍の紋付きを着て、静枝は小判2枚が重なったような紋の入った紋付きを着ておすましして写った写真がある。興味のある人は、いるわけないか。

53.    松本茂夫について

松本茂夫は明治27116日に、愛知県幡豆郡西尾町大字和泉八拾参番地 松本国太郎長男として誕生。「西尾小町」といわれるほどの美女と恋に落ち、長男寛が生まれる。しかし、この茂夫の父国太郎は、相手の女性が気に入らない。生まれた子は引き取るが、茂夫がこの女と結婚することは断固として許さない。しかも、生まれた子は東京の佐藤家に養子に出してしまう。それを知った茂夫は怒って家出、朝鮮へ向かう。(静枝、昭子談)

 昭和の放蕩息子、康明はここが不思議でならない。家出をするくらいなら、何故その女性と、そして子供を引き連れて家を出なかったのか。「駆け落ち」=「家出」+「結婚」という恋の方程式を思い浮かべれば、茂夫の単身渡鮮はどうも合点がいかない。

 おそらく茂夫には茂夫の理由があったことだろう。とにかく茂夫は朝鮮に渡り、平壌に行く。この当時、何のつてももたずに渡鮮した日本人が簡単につけた職業といえば警察官である。茂夫も平安南道で巡査をしていた。そこへ現われたのが同郷の村松彦三郎。彼の誘いで彼の経営する農機具工場に参加する。(静枝は、茂夫は共同経営者としてこの工場を起こしたと言っているが、巡査の茂夫にそんな金があったのだろうか?おそらくは、手代からはじめて、やがて能力を認められ番頭にのし上がっていったというのが本当の所だろう。と思っていたが、昭子叔母も最後は茂夫が実質的に経営の指揮をとっていたというから、案外最後は共同経営者になっていたかもしれない。茂夫は引揚後、村松と共に赤坂工業を興している。

 やがて、日本軍の中国戦線拡大にともない、軍需産業にこそ商機があると踏んだ茂夫は、慎重な村松を説き伏せ、農機具工場を軍需工場に変える。そしてそれが大成功を遂げ、村松も茂夫も経済的な勝者となった。(昭子、静枝談)

 松本茂夫の人物を知る格好のエピソードがある。

 敗戦当時、茂夫は平壌市の「理事」をしていた。「理事」というのは、今で言えば市内各地域にある自治会組織の自治会長(区長と呼んでいた)を束ねる役職である。区長にしても理事にしても、当然、当時の朝鮮で、経済的に社会的に成功している人々が就任していた。

 こういう人々は当然、支配される側からは「日本帝国主義の手先」としてもっとも憎まれる人々である。

 日本が戦争に敗れるや、日本人で工場を経営していた者や、区長などをつとめていた有力者達はことごとく逮捕され留置された。こうして逮捕された者の中には遺体となって帰ってきた者も多くいたのである。(昭子談)

 松本の家では、茂夫の逮捕がいつになるかとじっとその日の来るのを恐れて待っていた。しかし、他の区長達が次々に逮捕され、残るのは茂夫一人となってもまだ来ない。不安は募るばかりである。

 そしてついにその日がきた。日も暮れなんとする時刻に茂夫は連れて行かれた。だれしもが思った。これほど遅いということは、他で証拠固めをしてから来たのだ。これがあるいは、今生の別れとなるのか。

 翌朝、茂夫は帰ってきた。茂夫によれば、「あんたのような人は、我が国の再建には邪魔になることはあっても、役には立たん。」と言われたそうだが、それ以上のことは特になく、「あんたのことだから、逃げはせんだろう。明朝、10時に必ず出頭しなさい」と言われ、その日は帰してくれたのだ。

 そして朝10時再び出頭。そしてその晩も留置場に入れられた。留置場で座っていると、一人の看守が格子の向こうから声をかける。

 「松本さんではありませんか。何であなたがここにいるのですか?」

 茂夫にはその人がまったく記憶にない。

 「失礼ですが、あなたは?」

 「いや、松本さんは私をご存知ないですよ。」と言いながら、その男は自分の顔を懐中電灯で照らす。しかし、茂夫にはまるで思い当たらない。

 「松本さんは、こんなところにいる人じゃありませんよ。大丈夫ですよ。」と言い置いてその男は立ち去った。

 翌日、茂夫は簡単な取り調べの後、釈放され、そして二度と逮捕拘留されることはなかった。

 茂夫は、家に帰ってからもその人のことを考えるのだが、ついに思い出すことはできなかった。

 それから3ヶ月ほどたったある日、静枝と連れ立って歩く茂夫が不意に立ち止まる。彼の視線の先には一人の男の人がこちらに歩いてくる。

 その人は、茂夫の顔を見て満面を笑みにしている。

 「あなたはもしやあの時の看守の方ではありませんか。」

 「はいそうです。」

 「私が釈放されたのはあなたのおかげだと思うのですが、大変失礼ながら、私はどうしてもあなたのことが思い出せないのです。」

 「それはそうでしょう。私はあなたのことはよく知っているが、あなたは私のことを知らないのですから。私はあなたと同じ区に住んでいるものなのですよ。私はあなたのことをよく知っているから、釈放されるようにしたのです。」という彼の話を要約すると、