Part 3一郎物語
1.
Part1
2.
Part 2
27.
1924年(大正13年) 一郎の結婚
28.
統営のゴッドファーザー服部源次郎
29.
横須サワノ
30.
1925年(大正14年) 黒宮甫誕生 (父27歳、母18歳)
31.
1927年(昭和2年) 惣八とフサ離婚
32.
1929年(昭和4年) 黒宮哲士
33.
1930年(昭和5年) 2月5日午後3時 黒宮一郎 永眠
34.
1930年(昭和5年) 甫物語へ
第3巻 惣助一族の系譜
Part3 一郎物語
27.
1924年(大正13年) 一郎の結婚
1月28日 一郎、横須サワノと結婚。一郎26歳、サワノ17歳。
実は、一郎のことはほとんど何も分かってはいない。彼の学歴も、いつから働き始めたのか、そしていつ独立して馬山に米屋を開業したのか、いつ結核にかかったのか。
父惣八が放蕩三昧で黒宮家の財産をほとんど使い果たしてしまうことがほぼ確実になったとき、惣八の父、惣助のはからいで、一郎は一定の財産分与を受け、分家している。その一郎の戸籍は15段落にあるが、それを見ると、一郎が17歳の時、父惣八が就職したと届けている。はたして就職したのが惣八なのか一郎なのか、もし惣八だとすれば、後見を始めてからこの時まで惣八は遊んでいたことになる。もし、一郎が就職したとすれば、17まで何をしていたのだろう?学生?じゃ、学歴は?
甫も、義父への遠慮があるからか、あるいは5歳で死別した父について語るほどの知識がないのか、多くを語らない。とりあえずここには、甫がぼそぼそと語ったことだけを記す。後は、甫が完成すればよい
一郎の学歴は高等小学校で止まった。しかし、彼はよほどの優等生であったらしく、高小卒でいきなり小学校の代用教員に採用される。何かといえば学歴にこだわる現代とは違って、この時代は秀才、それも並外れた秀才に限ってのことではあるが、代用教員として採用されることがあったらしい。
一郎は、この代用教員時代、比較的時間が自由になるメリットを最大限に利用し、エスペラント語や英語という外国語や、当時一般の書店などで販売されていた大学の講義録を独学する。特にエスペラント語には熱を入れたらしくかなりの使い手となった(サワノ談、静枝語る)。また、この時期バイオリンにも手を染め、年下の叔母シヅエと合奏を楽しんだりもしたという。
服部源次郎との出会いがいつ、どこであったかよく分からないが、甫は、この代用教員をしている間に出会いがあったのだろうと言っている。
そして就職。秀才でありながら中学に行けなかった一郎には、一つの決意があった。「弟達や妹達は、最低限中学までは行かせてやる。」一郎はこの思いを胸に、必至に働き、下の弟2人と妹2人に中学卒、高女卒の学歴を与えている。
「服部源次郎傳」の写真の中に、若き一郎(21歳)の姿が映っている。背筋をぴんと伸ばした姿勢そのものはただ時代を反映するものであろうが、この人のカメラを見つめる眼差しには、なにか心洗われるものがある。この御先祖様の境遇を考えれば、もっと屈折したものがあってもいいと思うのだが、、、。この人は、今自分がどこにいるのかちゃんと知っている。自分がどこへ行こうとしているのか知っている。誇り、自信、21歳の頃の私にはまるでなかったものをこの人は持っている。この世で出会いたかったものだ。一郎直系の子孫は必ずこの写真を見ること。
服部さんというのは、非常に厳しい人であったようで、何事も一番でなければ気に入らない。そろばんでも何でも、一番でなければ気に入らず、気に入らなければ即刻解雇してしまう。そのかわり、一度気に入り信頼すると何もかもまかせっきりにしたらしく、一郎の独立後、服部商店を仕切った永富洋一さん(芳枝さんのお兄さん)も二十歳そこそこで20社以上の系列会社の総支配人を任されている。(引頭さん談)
芳枝さんは、お兄さんの洋一さんが非常に優秀な方であったことを述べておられたのだが、それはそのまま一郎のつとめぶりにも当てはまることだろう。
一郎は、服部さんのもとで読み書き算盤はもちろん、経営術についても厳しく指導を受けていたが、それに加えて、朝鮮語も独学で習得し、かなりの使い手であったという。先のエスペラント語といい、英語といい、この人が努力の人であったことは容易に想像できるが、弟の寿夫も朝鮮語はスパイになれそうなくらいうまかったそうなので、この世代の黒宮には語学の才能があったのかもしれない。
また、算盤は、服部さんが開設したそろばん塾の塾頭になるほどの腕前であり、服部源次郎さんにも大変気に入られ、源次郎さんはおそらく我が子同然の気持ちで一郎のことを思っていたことだろう。そのあたりのことは「源次郎傳」に詳しい。 目次へ
28.
統営のゴッドファーザー服部源次郎
一郎とサワノを結び付けたのは、この服部商店の旦那様、服部源次郎さんであった。一郎直系の子孫は、「服部源次郎傳」に収められた一郎の文章を必ず読むこと。この本が印刷に回された時には既に故人となっていたから、おそらくは病床で、胸の内部を食い荒らす病魔と闘いながら、大恩ある主人をしのび、文字通り血を吐きながらしたためた文章であるかと思えば、感慨もまた一入である。
さて、一郎の結婚である。
雅子叔母の話によれば、実は一郎は、密かに想いをよせる女性がいたとのことである。そして、その女性と文通をしていたらしい。その女性とは、9歳年下の叔母シヅエさんであった。
実際、この頃の黒宮家の構成は非常に入り組んでいるため、やたらと混乱するが、17番目の段落を見れば、少しは分かりやすくなる。でも、叔母と甥との結婚なんてできるんだろうか?
このシヅエさん、津島高女を主席で卒業した才媛であった(雅子情報)。「履き物おばさん」として私の記憶にかなり鮮明に残っている小笠原先生とも友人であった(静枝情報、甫確認)。小笠原先生は名古屋大学教育学部で講師をしておられた方である。
とにかく、一郎は、ある日服部商店の御主人、源次郎さんに突然呼び出され、「妻帯しなさい」と命じられる。「いや、私はまだ一人前ではありませんので」と再三断るのだが、この源次郎さんとても強引な人で、しまいには、「わしの言うとおり結婚するか、店を辞めるのかどっちかを選べ」と迫る。
そこまでいわれても、まだ、一郎は引き下がらない。「今、結婚してもとても生活していけそうもない」からとなお断る。すると、源次郎は、「生活のことはすべてワシが面倒見るから結婚せい」とたたみかける。
ここまで言われると一郎も拒みきれず「そこまで私のことを思ってくださるなら」と結婚を承諾したという。(この間の経緯は先ほどの「源次郎傳」に詳しく出ているので是非一読のこと。)
一方のサワノは、西行十郎の長女として生まれたが、事情があって横須才次郎とウワ夫妻の養女に出された(横須ウワ談を引頭芳枝さん語る)。この養子縁組はよほど幼い時のことらしく、サワノは結婚に際して戸籍謄本を見るまでそのことを知らなかった(甫談)。
娘時代のサワノをよく知る引頭さんは、当時の印象をこう語っている。
「サワノ姉さんにはとても品があったわねぇ。子供心にも私はずっと思っていたの。横須の両親には悪いけど、よく、こんな両親から生まれてきたものだと。姉さんが結婚した時に横須のお母さんから、サワノ姉さんはいいところのお嬢さんだったのを、事情があって横須が養女にもらったんだと聞いて、子供心に始めて合点がいったことをはっきりと覚えているわ。」
横須才二郎は広島県安芸郡呉字呉小字坂の漁師であったが、いつの頃からか坂の漁師達と一緒に朝鮮統営に渡り、運送業をしていた(甫談、引頭情報では漁師だった)。才二郎には金の能力はおよそなく、妻のウワは家計を助けるために豆腐屋を営んでいた(甫談)。
というように、一家の生活レベルはさほど高いものであったとは思われないが、才二郎とウワは、サワノには愛情において、教育において、躾において彼らにかなう限り最高のものを与えようとしていた(引頭さん談)。
娘時代のサワノは気品をたたえた美少女で、はにかみやさんであった。小さな時から「お三味」や、踊りなどを習わされており、発表会にも出場していた。永富芳枝さん(後の引頭芳枝さん)とはこのお稽古事で知り合う。その永富さんの話によれば、人と話しをする時はうつむきかげんで、微笑む時もはにかむように笑っていたとのことだ。孫の目から見ても、サワノ婆さんの笑顔はどこかチャーミングであったから、おそらく一郎もその笑顔には心惹かれたことであろう。
引頭さんにお会いしてお話をうかがった時、引頭さんは、サワノが女学校に行ったとは思っていなかった。第一に、サワノの世代に女学校に行くものなどほとんど皆無といってよかったということもあるだろうが、それ以上に、引頭さんの知る横須の経済状態がサワノを女学校にやれるほど豊かなものではなかったためそう思いこんでいたという印象を私は得た。
しかしサワノは三島女学校に入学した。入学はしたが彼女は一年で退学する。その理由は、甫によれば「淋しかったから」ということだが、雅子によれば「私立の女学校で、誰も勉強しようとしないので、つまらんかった」からやめたのだそうだ。理由は何であれ、サワノは女学校を中退する。そしてそれが後に彼女を益々引込み思案にさせていくのである。
話はそれるが、敗戦後日本に引き上げてから、一郎の姉妹達や、惣助の娘達(これまで見てきたように、惣助の子供たちは義父の惣八とつるゑ以外、夫一郎と同年かそれ以下の年齢であり、叔母といえども、世代はまったく同じである)と同席するたびに、サワノは一歩後ろに控えていた(静枝談)。おそらく誇り高いサワノのこと、高女出の義妹や義叔母達に囲まれると、自分の学歴への引け目を強く感じたのだろう。
サワノは三島高女を中退した後は横須の家で花嫁修業を続ける。その修業の一環として三味線を習っていたというのは時代を感じさせるが、引頭さんも同じお師匠さんについてお三味や踊りを習っていたそうだから、当時としては女子が身につける教養の一つだったのかもしれない。
服部源治郎さんがサワノを「みそめた」のはこの習い事の発表会でのことであった。舞台上でお三味を弾くサワノを見て、源次郎さんは、「黒宮の嫁はこの娘しかいない」と思った。そしていかにも源次郎らしく、一郎の意向も、サワノの意向も、また黒宮、横須両家の親達の意向もお構いなしに、その場でいきなり、面識のあった永富のお母さんに、「あの娘をうちの大番頭黒宮一郎の嫁にほしい。話をつけてきてくれ。」と命じたという。(引頭さん談)
統営のゴッドファーザー服部源次郎の面目躍如である。
横須の両親が、この唐突なプロポーズをどう受けとめたかは残念ながら知る由もないが、当時、統営一番の実力者(あるいはこのころすでに統営の「面長」(=町長)であったかもしれない)であった服部源次郎の服部商店の経営をすべて任されている若者ということであれば、非常にありがたい縁談と思ったのかもしれない。サワノが「写真一枚で嫁にいかされた」と述懐(雅子談)しているように、こちらも、娘の意向も確かめずこの縁談を受けたようだ。
我々一郎の子孫は、この源次郎さんには大いに感謝すべきである。なんといっても彼の強引さがなければ我ら一同この世には生を受けていないのだから。
この時の家族構成:
戸主:惣八(45歳) 長男:一郎(26歳)
妻:フサ(41歳) 長男の妻:サワノ(17歳)
三男:寿夫(17歳)
二女:寿枝(16歳)
四男:寿一(8歳) 目次へ
30.
1925年(大正14年) 黒宮甫誕生 (父27歳、母18歳)
永富夫妻の媒酌のもと、一郎とサワノはキリスト教で結婚式を挙げた。統営では初めてのキリスト教式の結婚式ということもあり、また結婚式の費用の半分は源次郎が負担し、かなり盛大な披露宴も催されたということもあり、二人の結婚式は相当の反響をよんだらしい。
おそらくサワノにとって、この盛大な結婚式からの数年間がもっとも幸せな時期だったのではないだろうか。尊敬もでき、頼りがいのある夫、経済的安定、そして今健康な長男に恵まれ、横須の両親の愛を一身に受けていた娘時代にも増して、生きている喜びを感じていたのではないだろうか。
家族構成:
戸主:惣八(46歳) 長男:一郎(27歳)
妻:フサ(42歳) 長男の妻:サワノ(18歳)
三男:寿夫(18歳) 長男の長男:甫(0歳)
二女:寿枝(17歳)
四男:寿一(9歳)
目次へ
31.
1927年(昭和2年)惣八とフサ離婚
この時期、惣八は、統営の町で小さな雑貨屋を営みながら、統営の役場の吏員をしていた(引頭さん情報)。彼の雑貨屋は日本人街からは遠く離れた朝鮮人街にあったとのことだが、彼は毎日そこから馬で役場までかよっていた。(甫)
妻フサとの間がよかったのか悪かったのか、この点についての情報はないが、あるいはフサの継子いじめに辟易していたのかもしれない。子供たちがそろって、惣八にフサとの離縁を迫ると、フサと協議離婚し、津島で置き屋をしていたすずこを呼び寄せ、同居を始めた。
美代子さんの話では、この時期、年に2〜3回は山路に帰っては、朝鮮での暮らしぶりを吹聴していたようだ。
戸主:惣八(48歳) 長男:一郎(29歳)
妻: 離縁 長男の妻:サワノ(20歳)
三男:寿夫(20歳) 長男の長男:甫(2歳)
二女:寿枝(19歳)
四男:寿一(11歳) 目次へ
32.
1929年(昭和4年)黒宮哲士
山路区有文書の「町田樋管伏せ替え割賦帳」に山路の哲士おじさんの名前が見える。不思議なことに、この樋管伏せ替え費の分担金額(所有土地の広さに応じて割り付け)でみると、叔父さんのところは、まだ山路で一番の地主ということになる?? 目次
33.
1930年(昭和5年)2月5日午後3時 黒宮一郎 永眠
人として、惣領として、夫として、父として誠実に、懸命に生きた一郎、朝鮮慶尚南道統営郡統営面吉野町146番地において永眠す。享年31歳。
肺結核であった。独立し馬山で米屋を開業、着々と基盤を固めつつあったところへ突然襲いかかった死の病。
お嬢様育ちのサワノ、日本語しか話せないサワノには、夫一郎に代わって店を取り仕切るだけの力はなかった。唯一の働き手を失えば、現金収入の道は即断たれてしまう。普通ならば途方にくれ、ただおろおろするばかりであっただろう。しかし、一郎には徳があった。服部商店時代、兄弟同然に、共に学び、育ってきた後輩永富陽一(当時服部商店総支配人)が、一郎一家を統営の服部商店精米所宿舎に引き取るのである。もちろん源次郎がいれば源次郎自身がそのように取り計らっていたことだろう。しかし源次郎は、ヨーロッパ周遊の旅に出て不在であり、服部商店の経営一切を取り仕切っていた永富陽一が当然のことのように一郎一家の面倒を見たのだった。
身体の芯まで凍らせる朝鮮の冬。永富やサワノの介護もむなしく一郎は帰らぬ人となった。
この時、甫はまだ4歳。父や母の不安も知らず、ただただ無邪気に永富の娘(同い年)と遊んでいた。(芳枝さん談)
戸主:惣八(50歳)
内縁の妻:すずこ(?歳) 長男の妻:サワノ(22歳)
三男:寿夫(22歳) 長男の長男:甫(4歳)
二女:寿枝(21歳)
四男:寿一(13歳)
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