第3巻惣助一族の系譜

Part 2 惣八物語

1.                                山路の黒宮

 

11.      1894年(明治27年)  惣八勘当!立ち直らないかんどう!?

12.                         姉達の分家

13.    1896年(明治29年)  惣八の結婚

14.    1898年(明治31年)  一郎誕生

15.    1908年(明治40年)  清子と寿夫誕生、つるゑ結婚

16.    1913年(大正2年)   一郎の分家

17.    1914年(大正3年)   惣助隠居

18.    1914年(大正3年)   惣助分家

19.    1915年(大正4年)   一郎服部商店に就職?

20.    1916年(大正5年)   美乃の死

21.    1917年(大正6年)   元養子に出す

22.    1917年(大正6年)   惣八の再婚

23.    1917年(大正6年)   長女操の転籍

24.    1919年(大正8年)   史郎永眠す

25.    1920年(大正9年)   惣助三女かなゑ結婚

26.    1921年(大正10年)   長女操結婚

27.    1924年(大正13年)  一郎物語へ

28.     

29.    1930年(昭和5年)  甫物語へ

 

 

3巻 惣助一族の系譜パート2

惣八物語

11.    1894年(明治27年)  惣八勘当!立ち直らないかんどう!?

 日英通商後悔条約調印、日清戦争勃発のこの年、惣助は2つの決断をする。

 その一つは、勘当していた息子惣八を許すこと、そしてもう一つは、これを機に黒宮家の相続関係をすっきりとさせることである。

 まず、惣八の勘当。

 一人息子惣八が10歳の時、惣助は最初の妻くにに先立たれた。そして1年後、この時代の中産階級においてはごく普通のこととして、惣助は西保の佐藤栄九郎(五之三のあきよしさんのおじいさん)の長女津たと再婚する。

石原美代子さんのお話:津たは「つたのさん」と呼ばれていた。津たは既に津島の伊東家に嫁ぎ、「みのえ」という女の子を産んだ。その後、夫に先立たれ、下平の実家に帰っていた。娘のみのえさんは、伊東家の跡取ということで、お祖母さんが引き取り、伊東家で育てられた。このみのえさんに、朝鮮から引き上げてきた黒宮寿夫一家は大いに御世話になるのだが、それは又後で触れる。

 惣助にしても、惣八はたった一人の跡取り息子。彼なりに息子惣八に愛を注ぐが、惣八は反抗期。惣助の再婚以来、惣八はぐれ始めた(甫伝)らしい。それも多分生半可なぐれ方ではなかった。1年前の明治26年10月17日津たとの間に2番目の女の子ちツゑがうまれたのを潮に、惣八を勘当している。(26年10月18日、惣八を廃嫡し、長女のつるゑを嗣子にと届出あり。惣八14歳、つるゑ2歳である。)

 ところが、それからちょうど1年後の明治27年10月29日、惣助は再び惣八を嫡男とする届を出している。

 10月に勘当し、10月に許す。きれいにはかったように行われたこの勘当劇、何やら親父惣助の苦悩が見えるような気がする。最初から1年間と決めていたのではないだろうか。

 私には、四分の三世紀(75年)後、津たの実家近くで繰り広げられる馬鹿息子康明と苦悶する父親甫のドラマとやたらダブるところがあるように思われてならない。

石原美代子さんのお話:惣八は、夜な夜な本家(ほんや)の許三郎と津島で芸者遊びをしていた。そのため、お祖父さん(美代子さんのお祖父さん=惣助)は、「このままではうちのしんしょうは惣八につぶされてまう」とぼやいていたようだ。

 この頃の黒宮家の豊かさを物語るエピソードには事欠かないが、美代子さんのお話から2つだけここに引いておく。

 子供たち一人一人に「乳母」がついており、娘達も家事の手伝いをすることはなかった。長女つるゑが石原家に嫁にいく時惣助の出した条件の一つが、つるゑには家のことは何も教えていないから女中を一人つけてくれというもの。石原家の姑が「米ぐらい炊けるだろう」とつるゑに米を炊かせると、つるゑは「お釜に米と水を入れればご飯になるのだろう」と釜に米と水を入れ、そのまま放置しておいて、姑にあきれられるやら、叱られるやら。ここまでのお嬢様育ち、どこか成り上がり者の臭いもするが、おみごとと云うべきだろう。

 もう一つはお茶。黒宮の家の裏手に茶畑があった。毎年新茶は自家用に摘むが、新茶だけで一年間のお茶は十二分に賄えたので、後は家の使用人や小作の人々に自由に取らせていた。そして惣助も惣八もお茶っ葉は一回しか使わなかったそうだ。つまり、お茶を一杯注いだら、もうそれでその葉は捨てるのだそうだ。こんな贅沢な使い方をしながら、なお一年分のお茶が新茶だけで賄えたというのはどんなに広い茶畑だったのだろう?    目次へ

12.      姉達の分家

もう一つの決断は、61歳になった姉のくまを分家させること(11月14日)。

 日付が惣八を許してから1月もたっていないところを見ると、惣助はこの際家の中の問題をすっきりとさせておこうと思ったのかもしれない。翌28年にはもう一人の姉の「なか」も山路村内に分家させている。(53歳)

 この時の家族構成:

戸主惣助50歳

 妻:津た(28歳)                                          姉:なか(52歳)

長男惣八15歳

長女:つるゑ(3歳)

次女:ちツゑ(1歳)          目次へ

13.    1896年(明治29)  惣八の結婚

 日清戦争に勝利した日本に、シナでの権益確保をねらうロシア、ドイツ、フランスの三国が干渉、圧力に屈した日本は「臥薪嘗胆」を叫び「ロ助討つべし」の世論たけなわ。そんな勇ましい世情の中で、パーンパカパーン、パーンパカパーン、、、今おごそかに結婚行進曲が流れています。ナント、黒宮惣八君弱冠17歳で結婚!おめでとうございます!!

 え?うっそーっ!?お嫁さんはおばさん?おばさんってどういうこと???

 そうなんです。惣八の嫁は佐藤美乃さん16歳。惣助の2番目の奥さん津たの14違いの、2番目の妹なんです。

 14違いということで驚いてはいけません。この二人のお父さん、佐藤栄九郎さんには全部で3人の娘と6人の息子がいました。一番上は、慶応元年(1865年)生まれの長男英一さん、そして一番下が明治19年(1886年)生まれの六男米太郎改め英三さん、したがって一番上の子と一番下の子とでは21歳も年が違うんです。(五之三時代のあきよしさんは、この英一さんの二男)

 話を惣八君に戻します。

 この非常に若い結婚の裏には、何か悲しい、お父さんとお継母さんの願いがこめられているような気がしないだろうか?

 母親が死んでからというもの、甘えん坊の惣八は、本家のおじさん許三郎にくっついて津島の「置き屋」に入り浸り。ついには、自分一人でも居続けをする始末。金は、勝手に蔵から道具を持ち出し売りさばいて作る。惣助が何度叱っても言うことを聞かない。惣助は、ショック療法で立ち直らせようとばかりに我子を勘当するが、一年後には一応の詫びをいれさせ許してしまう。許しはしても、生来の甘えん坊の性根がそう簡単に変わるわけもない。以前ほどではないにせよ、いまだにどこか危なげで、親としてはおちつかない。

 「そうだ、結婚させれば惣八も落ち着くかもしれない。そうだ結婚だ!おい、津た。おみゃあんところの美乃ちゃんはいくつになってゃぁも?ほうか、16か。ちょうどええだにゃぁか。惣八の嫁にもらえんきゃぁも?」

 「ホンでもあんたぁ。悪いけどあの子信用できしんが。ワシにしてもでゃぁじな妹だでよぉ。」

 「大丈夫(でゃぁじょうぶ)だてぇ。あいつは黒宮の跡取りだで生活は困れせん。」

 「そんなこといったら、あんたぁ。ワシに息子ができたらどうするの。」

 「それはおみゃぁ。ちゃんとそれなりの財産分与をしたるがゃぁ。ワシがぁ。」

 「そうか、それなら美乃にはなしてみよか。」

てなわけでもらうことになったということだろう。

美代子さんも私と同じ見方をしておられた。

 また、山路区有文書を見ると、相変わらず惣助が山路の地主総代をつとめていると思われる。「明治29年盆前人足調長」の表紙に作成者として名前が出ている。

 この時の家族構成

戸主:惣助(52歳)                         長男:惣八(17歳)

 妻:津た(30歳)                         長男の妻:美乃(16歳)

長女:つるゑ(5歳)

二女:ちツゑ(3歳)         目次へ

14.    1898年(明治31年)  一郎誕生

 惣助は喜んでいる。惣八に長男が誕生し、黒宮家の嫡流が更に1世代未来に向かって伸び、そして惣八も親としての自覚の下に、きっと落ち着いてくれることだろうと期待しているから。そしてもう一人。実は、初孫より1ヶ月前に三女がうまれている。

 家族構成

 戸主:惣助(54歳)                        長男:惣八(19歳)

  妻:津た(32歳)                           長男の妻:美乃(18歳)

 長女:つるゑ(7歳)                         長男の長男:一郎(0歳)

 二女:ちツゑ(5歳)

 三女:かなゑ(0歳)       目次へ

15.    1908年(明治40年)  清子と寿夫誕生、つるゑ結婚

 惣八一家は四日市にいる。いつ四日市に移り住んだのかは判然としないが、寿夫は、四日市市大字北町拾六番屋敷で生まれたと戸籍にある。

1、 18日 惣助六女 清子誕生

1、 131日 長女のつるゑ 佐屋村の石原末吉長男 健三と結婚。

1、       2月17日 惣八三男 寿夫誕生。

1、 8月30日 広島県坂で 西行サワノ(後に横須へ養子縁組)誕生。

 家族構成

戸主:黒宮惣助(64歳)                   長男:惣八(29歳)

 妻:津た(42歳)                        長男の妻:美乃(28歳)

長女:つるゑ(17歳、結婚除籍)  長男の長男:一郎(10歳)

二女:明治326歳で死亡除籍     長男の二男:史郎(9歳)

三女:かなゑ(10歳)                    長男の長女:操(4歳)

三男:哲士(9歳)                         長男の三男:寿夫(0歳)

四女:シヅエ(5歳)

五女:美祢(3歳)

六女:清子(0歳)       目次へ

16.    1913年(大正2年)  一郎の分家

惣助は本気で心配している。このままいくと黒宮の財産は、本当に惣八に食いつぶされてしまうかもしれないと。ああ、どうして惣八はああまでだらしないのだろうか、、、。このままでは孫の一郎に残してやるものが何もなくなってしまう。禁治産者にするのが一番よいが、それでは戸籍が汚れるし、、、。よし、一郎を分家させ、今のうちに財産を分与しておいてやろう。そうだ、分家すればよその家。いくら親でも勝手に財産の処分はできなくなるからな。(この項は、美代子さんのお話をうかがってから挿入したもの)

 というわけで一郎は15歳にして分家独立!

愛知県海部郡立田村大字山路字小割四番地

大正弐年拾月拾六日親権ヲ行フ者ナキニ因リ後見開始大正四年五月拾九日後見人同村

大字西郷付参百六拾五番地黒宮惣八就職ニ付届出同日受付

大正七年七月四日被後見人成年に達したるにつき後見終了届出同月拾四日受付

17.    1914年(大正3年) 惣助隠居・惣八家督相続

 惣助は70歳になったのを機に惣八に家督を譲り、隠居する。

 この年、山路では佐屋川廃堤敷地払い下げについて、ほぼ山路の全戸を巻き込む「契約書」が作成されているが、そこには惣助の名前も惣八の名前も出ていない。あるいはこの頃四日市で風呂屋をしていたのかもしれない。なお、この契約書でみると、一平の他に伊藤為三郎、黒宮嘉七、佐藤富三郎の3人も許三郎の遺産相続人であったことが分かる。どういう関係の人々?

 平成12年2月23日追記:黒宮嘉七という人は、許三郎の下で「祐筆」というか書記を務めていた「奉公人」であったが、なぜか許三郎と養子縁組をしたという。嘉七の孫の吉田ひさをさんのお話では、許三郎の長男一平と嘉七さんの娘の間に子供があったようだが、あるいはそれがきっかけであったのかもしれない。

  戸主:惣八(35歳)                          父:惣助(70歳)

   妻:美乃(34歳)                        父の妻:津た(48歳)

  長男:16歳、小割に分家                父の三女:かなゑ(16歳)

  二男:史郎(15歳)                       父の三男:哲士(15歳)

  長女:操(10歳)                           父の四女:シヅエ(11歳)

  三男:寿夫(6歳)                         父の五女:美祢(9歳)

       二女:寿枝(5歳)                         父の六女:清子(6歳)

       三女:元(1歳)        目次へ

18.    1914年(大正3年) 惣助分家

 惣八に家督を相続させてから1ヶ月後、惣助は孫の一郎が分家していったのと同じ住所、山路小割4番地に妻子引き連れて分家していった。これから先、惣助一家にどんな出来事があったかは、現時点では分からない。ただ一つ判明しているのは、惣助は津たと大正5331日協議離婚していること。津たは実家の兄、佐藤英一の戸籍に復籍した後、同年45日付で佐屋村大字佐屋字宅地636番地に分家していったことである。なお、この佐屋村の住所は長女つるゑの嫁ぎ先の住所である。

19.    1915年(大正4年) 一郎服部商店に就職?

 この年、服部源次郎さんは勘当をとかれ四日市に帰郷している。一郎はこの時就職したのではないだろうか。16段落参照。又、服部さんについては27段落以降を参照   目次へ

20.    1916年(大正5年) 惣八妻美乃死亡(36歳)

 惣八一家は喪に服している。母美乃が36歳の若さでいってしまったのだ。一番下の元はまだ3つ。長女の操にしてもまだ12歳。美乃の悲しみやいかに。

 家族構成:

戸主:惣八(37歳)      (長男:18歳、小割に分家している)

二男:史郎(17歳)

長女:操(12歳)

三男:寿夫(9歳)

二女:寿枝(8歳)

三女:元(3歳)

21.    1917年(大正6) 末娘元養子にいく

この年、惣八の戸籍に3つの動きがあった。それを3つの段落に分けて書く。

最初は末娘元を養子に出したこと。

1月に4歳となった末娘元を、惣八は育てる自信がなかったのだろうか、それとも何か別な理由があったのだろうか、2月には津島の小澤松治郎、志き夫妻の養女に出している。(海部郡津島町大字津島343番戸戸主小澤松蔵長男夫妻)

22.    2つ目は惣八の再婚

 妻美乃の一周忌もあけぬ522日、惣八は、津島で芸者をしていた大阪出身の米田フサ(大阪市北区上福島中四丁目237番地の1戸主米田常次郎姉)と結婚する。

 このフサという女性について、朝鮮統営で惣八一家と親交のあった永富芳枝さん(現在は引頭芳枝さん)が次のように語ってくれた。

「あの人は、花柳界の出だったから、色々ものを知らなかったのね。兄(永富陽一さん)の結婚式の時仲人をお願いしたんだけど、母がぼやいてたわ。ものを知らないから、結婚式の段取りがちっともとれないって。」

 「子供たちをいじめたのよ。全部の子をよ。特に一番下の子がいじめられてたわよ。それはひどいものだったわ。それでね、子供たちが大きくなった時に追い出したのよ。みんなで力をあわせて。」

 事実、惣八とフサは、結婚生活10年目の昭和246日協議離婚している。31段落

 美代子さんのお話:「朝鮮のおじさん(=惣八)は美男子だったょ。いつも朱泥の火鉢にチンと行儀よく座ってお茶を飲んでりゃぁた。黒宮をつぶしたのは、悪いけど、朝鮮のおじさんだがね。いっつも芸者遊びでよぉ。2番目の奥さんも芸者だったょ。津島だがね。おふささんは津島で芸者しとったんだが。そうだろうな、意地悪もしただろうな、子供たちに。おじさんは、おふささんと結婚した時も、もうひゃぁ(もう既に)津島に女をかこっとったよ。スズコという人だったわ。津島で置き屋をしとった人だったわ。きれいな人だったよ。娘が一人おったな。」

 その娘は惣八の子供であったかもしれないが、今となってはたどる術もない。  目次へ

23.    大正6年に起こった3つめの出来事は、長女操の転籍である。

912日付けで操は祖父惣助の家籍に入籍している。9月というタイミングなので入学のためともおもえないし、更に、半年後の大正7125日には再び惣助の家籍に復籍しているので、何のための転籍なのか判然としない。不思議な戸籍操作である。

 家族構成:

戸主:惣八(38歳)

 妻:フサ(34歳)        (長男:19歳、小割に分家している)

二男:史郎(18歳)        (長女:惣助の家籍に移っている(13歳))

三男:寿夫(10歳)

二女:寿枝(9歳)         (三女:養女に出る(4歳))

24.    1919(大正8年) 史郎永眠 

 第一次世界大戦終結の年、史郎は20歳でこの世を去った。

この時の住所:三重県四日市市濱町395番地

なお、一郎は、確実に朝鮮にいる。服部商店の前でとった写真が源次郎傳に出ている。

 

25.    1920年(大正9年) 惣助三女かなゑ結婚

 海東郡佐屋村大字佐屋八拾参番戸戸主石原末吉二男周三と婚姻届

そうです、かなゑは、姉のつるゑの夫、健三の弟と結婚したのです。なにやら、高校時代悩まされた順列組合せという言葉が今頭の中を駆け巡る。

26.    1921年(大正10年) 68日 長女操結婚

  和歌山県伊都郡学文路村大字清水295番地戸主水野音松二男水野常太郎と婚姻届

多分、惣八一家はこのころには渡鮮していた。というのも、一郎は大正8年には統営の服部商店の番頭をしており、家族も彼の周りに集まってきていたものと思われる。 


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