Part 1 惣助物語
1. 山路の黒宮
2. 民三郎と惣助
3. 1850年 19世紀半ばの黒宮家
4. 1863年 攘夷!上意!
5. 1872年(明治5年) 惣助家督相続
6. 1882年(明治15年) 第1回国政選挙
7. 1886年(明治19年) 山路村地主総代黒宮惣助
8. 1886年(明治19年) コレラと黒宮家
9. 1892年(明治25年) 木曽川改修工事、母の死
10. 山路にいた黒宮さんたち一覧
11. 1894年(明治27年)〜 惣八物語へ
12. 1924年(大正13年)〜 一郎物語へ
13. 1930年(昭和5年)〜 甫物語へ
第3巻 惣助一族の系譜
ここでいう山路の黒宮は、立田村大字山路字西郷付365番地を本籍地とする黒宮で、江戸時代末期1850年の村絵図に「山地村組頭 惣助」と記載されている者の子孫をいう。
この山路村の黒宮家がいつ頃からこの山路の地に住み着くようになったかは、現在なお調査中であるが、寛文9年(1669年)に山路にいたことは古文書等から確実である。
1669年に既に山路にいた、それも随順寺の北側に1町(10反=3000坪)の敷地・屋敷をかまえ、その敷地内には八幡社(後に村社となる)をもっていたというように、かなりの財産をもってこの地にいたこと等を考えれば、おそらく1624年に、中島郡の川北村から山路の地に随順寺が移ってきたことにも深く関わりをもっていたと思われる。(私は、黒宮家が随順寺を山路の地に招聘したのだと考えている。残念ながら、随順寺は明治時代に火災にあい、過去帳他の文書をほとんどすべて焼失しており、随順寺の記録からこのことを証明することはできないが、本願寺には、あるいは当時の経緯を語る文書が残っている可能性もある。いずれ調べてみたい)
津島祭を始めた黒宮修理一族は1499年に市江島全島(石高三千石)を領有している(佐屋町史)が、この頃には既に黒宮修理一族がここ山路の地に住みついていたと考えてさしつかえない。
ただ、家紋を見ると、黒宮修理は「藤の紋」を使っていた(市江祭記)のに対し、我が山路の黒宮は「卍」の家紋であり、黒宮修理の直系を主張したい者には一つの障害となるが、第2巻の最後にも述べたように、昔から家系図だけはどんな大法螺を吹いても許されるものであるから、ここは好きなように考えればよい。
参考までに3つの仮説を掲げておく。私は、二番目の仮説に冒険的要素を加えたものが気に入っている。
@ 黒宮治郎右衛門の嫡男(あるいは直系の者)が信長の怒りを恐れ、一時出家し身を潜めたが、後に天皇の仲介で石山本願寺と信長が和解するや、恐る恐る市江に帰るが、そこには既に服部、宇佐美、佐藤、伊藤の四家が居住しており、対岸の山路に入った。家紋を卍に変えたのは、それによって黒宮直系を隠そうとしてのこと。
A
山路の黒宮はもともと次郎右衛門から数代前に黒宮本家から枝分かれした「小枝」黒宮で、山路に土着の百姓侍であった。血気盛んな青年黒宮が蜂須賀小六の川並衆の茜のフンドシと帆柱の頂から風に流れる真っ白な卍の旗に憧れ、「うちもこれを家紋にする」ときめた。
B
山路の黒宮は実はかくれキリシタンであり、卍の家紋であればだれも隠れキリシタンとは思うまいてということから家紋が卍になった。
2.
1850年の村絵図に「惣助」とある人は、江戸時代の末期に、山路において藍問屋を営み、兼ねて蒲穂葉業をもして富裕の生活であった黒宮家に生まれ、天保の頃、15町歩の田畑と、名誉職「組頭」役を「分与」され、分家した人で、明治用水であまりにも有名な「黒宮許三郎」の叔父にあたる。つまり許三郎の父、民三郎は、我らが先祖の惣助の兄弟である。
残念ながら、現時点では民三郎と惣助の両親の名前、二人のどちらが年上であったかなどは不明である。許三郎の直系の子孫黒宮真澄さんのお話をうかがっても、許三郎以前のことは、家系図も焼けておりまったく分からないとのことである。 目次へ
3.
1850年 19世紀半ばの黒宮家
上記の絵図面の作成された1850年当時の黒宮家の家族構成。
戸主:惣助(年齢不詳)
妻:つか(32歳、注1)
長女:くま(17歳、注2)
次女:なか(8歳、注2)
長男:惣助(6歳、注3)
注1) 黒宮源七の三女。戸籍は、「文化元年」に産まれたとあるが、それでは40歳で初産したことになり、いささか信じがたい。勿論、「つか」も再婚であった可能性も否定できない。その場合は40歳で子供を産んでも不思議はないが、逆にいくら再婚であっても、15町歩からの地主が40近い大年増を嫁にもらうかという気もする。これを文政元年と考えれば、初産としても26歳、結婚した時の年齢も24歳となるので、ここでは文政元年の生まれとし、32歳としておく。
注2) 長女と次女の母親の名前は不明である。この時点での妻「つか」は、次女「なか」が産まれてから半年後に入籍されている。
注3) 昔は、家督相続の際、名前も一緒に相続していたようで、親子同名というのが非常に多い。例えば、注1で触れた「黒宮源七」の息子も「源七」である。また、佐屋の黒宮家は代々「門左衛門」を名乗っている。
注4)
この他に、戸主惣助の母もまだ存命であったかもしれないが、今となってはわからない。
4.
1863年 攘夷!上意!
長州の田舎侍共が、アメリカ、フランス、オランダの船に下関から砲撃をしかけたり、薩摩がイギリスと戦争をおっぱじめたこの年、幕府は急遽外国からの海岸攻撃に対処すべく各藩に種々のことを命じている。その一環として我らが山路村にも「御用人足」を徴収せよとの藩命が下り、惣助の妻「つか」の兄源七がその御用人足に駆り出されている。
惣助は「くじ抜け」の筆頭に「宗助」と記載されているので、くじ運強く、徴用はまぬかれたのだろう。しかし、「惣助ジュニア」は血気盛んな19歳。ひょっとしたら伯父の源七にくっついて江戸あたりまで出かけているかもしれない。
この「軍用人足覚」には、山路村、小茂井村、上古川村、下古川村、大森村の5か村から約半数の101軒の氏名しか書かれていないことから、村史編集者(竹重先生が担当のようだ)は、「全村人を対象にするのではなく、高持ちの人に限って行ったことを示しているのではないか」と考えている。
不思議なことが一つ。民三郎(加藤太兵衛、黒宮許三郎の父)の名前も、許三郎の名前も見当たらないことである。加藤太兵衛は天保7年(1836年)生まれ、許三郎は嘉永5年(1852年)生まれである。太兵衛(幼名源之助)は、安政6年(1859年)に23歳で加藤家の養子になっているので、この時は既に山路にはいない。したがって民三郎又は許三郎の名前がなければならないが、まるで見当たらない。なぜ?ひょっとしたら当主が11歳と若すぎるので、母が後見人をしていたのかもしれない。
この点について立田村教育委員会の林先生から、この当時、許三郎の家はまったくの別格で、くじを引くことすらなかったのではないかというご意見をいただいた。参考までに付記する。
「くじ抜け」の中に「きし」とあるのが許三郎の母親のようである。これは更に調べる。 目次へ
5.
1872年(明治5年) 惣助家督相続
我黒宮家は喪に服している。幕末の世に、山路村組頭を勤め、機織りや藍玉生産、葦や蒲の穂の販売でそれなりに財も築いた惣助がついに他界したのである。当然、これまでの「惣助ジュニア」が家督を相続し、晴れて「惣助」を襲名した。
この時点での家族構成は以下の通り。
戸主:惣助(28歳) 母:つか(54歳)
姉:くま(39歳)
姉:なか(30歳) 目次へ
6.
1882年(明治15年) 第1回国政選挙
明治14年、国会開設の勅諭が発布されるや、板垣退助は自由党を結成、全国遊説の旅に出る。この全国遊説に金魚の糞のようについて回った黒宮が一人いたらしい。甫の話では、黒宮白石(はくせき)という人で、その人が最後どこでどう死んだのかは誰も知らないというのだが、甫伝説の多くと同様、ことの真偽は不明である。ただ、この白石君、なかなかの名士である。佐屋関連の測量なども行いながら、歌集も出版(全国レベルで評価されている)している。今でも複数の名士録にも名前が出ている。それにもかかわらず、なぜか「生没年不詳」とあるので、この甫伝説は案外真実であるかもしれない。
さて、この時の愛知県を代表する貴族院の議席の一つは、県下の高額納税者上位15名の互選で選ぶことになっていたが、高額納税者は、国会議員になっても銭にはならないからと誰もなりたがらなかったそうだ。そのため、何とくじ引きで選ばれたという話も伝わっている(佐屋町史)。
先の白石は、もともと山路から分かれていった佐屋の黒宮識右衛門の息子なのだが、この識右衛門は愛知県でも14番目の高額納税者であった。勿論、この互選メンバーの一人だったので、くじ運が「悪ければ」栄えある第1期の国会議員となっていたかもしれない。
しかし幸か不幸かくじであたったのは、15番目の高額納税者。周りから頼み込まれてしぶしぶ引き受けたのだが、いざ国会にいってみると、第1回の国会である。全国的に派手派手しく報道され、大変な栄誉を手に入れたらしい。それを見て「辞退者達」の悔しがったこと、、、。
さて、我黒宮惣助である。3年前に三和村の中山又四郎の長女くに(当時17歳)を嫁に貰い、めでたく長男も生まれ油ものりきった38歳。仕事にも精を出していたにちがいない。
この三和村は、最初現在の美和町のことかとも思ったが、どうやら現立田村大字三和のことらしい。明治11年(1878)「郡区町村編成方」施行時に、それまでの北条村、田尻村、大成村の三村が合併して三和村になった。中山又四郎がこの3村のいずれにいた人かは分かっていない。
その惣助の名前が明治15年の県会議員の被選挙人名簿に載っている。
山路村には7人の被選挙権をもつ者がおり、惣助はその筆頭に名前が挙げられているが、納税額は17円65銭で4番目である。
納税額の筆頭は山路村22番戸の黒宮許三郎(69円39銭)であった。
甫の語る伝説では、この許三郎の父、民三郎は幕末の惣助の弟であったとのことである。なるほど、仮にこういう名簿の名前の掲載順が、当時の「家格」の序列を何程かでも反映しているとするならば、「山路区有文書」を見る限り、惣助の名が許三郎よりも先にでてくるので、この甫伝も案外真実であるかもしれない。
後に出てくる惣助長女「つるゑ」の二女石原美代子さんのお話では、我黒宮の方が新家であり、惣助と許三郎は従兄弟どうしということである。なるほどとうなずける話ではある。ただ、なぜ惣助が「組頭」なのか、何故許三郎が「無役」なのかという疑問は残る。
この時点での黒宮家の構成。この時代の戸籍簿はすべて戸主との関係を示しているので分かり辛い。ここでは、なるべく夫婦を単位にグループ分けして書くことにするが、家籍は同一である。
戸主:惣助(38歳) 母:つか(64歳)
妻:くに(22歳) 姉:くま(49歳)
長男:惣八(3歳) 姉:なか(40歳) 目次へ
7.
1886年(明治19年) 山路村地主総代黒宮惣助
我らが惣助は山路村総代を勤めている。幕末の惣助も「組頭」を勤めていたのだから、我黒宮家、江戸の頃から庄屋殿をお助けもうす組頭の家柄であったのかもしれない。
甫ノタマワク、ソモ「惣」ナル言葉、古ヨリ深キ意味アリ。タダ単ニ「すべての」ト解スベキニアラズシテ、「組織」・「団結」ノ意ヲモ読ミ取ルベシ。ヨッテ「惣助」タルナマエ、「皆をまとめあげ、助けていく者」ト伝フ意味ナリ。コレマコトニモッテアリガタキ名前タルベシ。
いずれにしても、惣助の書いた文書のいくつかが「立田村史」の資料編に出ているので興味のある人は見るとよい。そして、さらに彼の文字を見たいという人は立田村の体育館に行けば「山路区有文書」の中にいっぱい見ることができる。
この年の家族構成:
戸主:惣助(42歳) 母:つか(68歳)
妻:くに(26歳) 姉:くま(53歳)
長男:惣八(7歳) 姉:なか(44歳)
8.
1886年(明治19年) コレラと黒宮家
上と同じ明治19年、海部郡にコレラが流行したようだ。6月には前ケ須(弥富町)で1名死亡したのに次いで山路村でも源三郎という人が死んでいる。この時の諸費用の明細が村史の資料編に出ていて、ここにも「黒宮」の名があがっている。この黒宮がどこの黒宮かはっきりとはしないが、総代を勤めている我黒宮であった可能性は高いと思う。 目次へ
9.
1892年(明治25年) 木曽川改修工事、母の死
明治20年代の立田輪中は木曽川の大改修工事で大騒ぎ。一方には、新しい木曽川の川床や堤防用に、生計を立てるべき田畑ばかりか家までも供出させられ、路頭に迷う人々がいた。特に悲惨だったのが、自分の土地を持たない小作農の人々。
昔の小作農の家といえば、掘っ建て小屋のようなもので、戸を開けて中に入ると昼間でも真っ暗。わずかに壁板の隙間から差し込む光の中を舞う埃の帯が所々にあるばかり。窓は壁面に穿たれた方形の穴で、普段は雨風が入り込まないよう戸板でふさがれている。その戸板は上が固定されているので、内側からつっかい棒をあて押し開くとちょうど大きなひさしのような形になり、かなりの雨でも家の中には降り込むことはない。(ただし、壁に隙間があるので雨漏りは大変)。
家の中はまず土間がある。土間で一番大きなものはカマド。カマドの脇には薪が一山。そしていくつかの甕がならべてある。甕には飲み水や味噌や漬物が入っている。そして奥にたたみ2畳ほどの板の間があって、ムシロが敷いてある。この小さな板の間に見られる家具といえば、これまた小さな棚と柳ごおり一つか二つ。これがすべてであった。
いや、ここに書いたのは、子供時代私がとても可愛がってもらった一人のお婆さんの家の様子であるが、立田村資料館の鈴木先生のお話からも、当時の小作農の家は概ねこのようなものであったことが知られる。
戦後の農地解放までの小作農は、土地を持たない人のことだから、立ち退きに際して補償されるものといえば、この掘っ建て小屋の移転料くらいのもの。新たに家を建てようにも土地もないし、小屋を作る木材も買えたかどうか、、、。実際、行き場もなく福原の輪中堤の法面にさしかけ小屋を立ててその日暮らしをしていた人がかなりいたらしい。
今こうしてこの文を書いている時にも、15m/s〜20m/sの強風がこの福原に吹き寄せている。このような北西の寒風が吹きすさぶ中、粗末な差し掛け小屋で冬を過した人々の苦労は想像を絶するものがある。
かと思えば、また一方には、木曽川の改修にともない廃川となる佐屋川の堤防敷地の利権をめぐってし烈な争奪戦(陳情合戦)をくりひろげる者もいた。
幸いにして我らが山路村は、新しい木曽川の水路からは離れており、争奪戦に血道を上げる側であったようで、「堤敷き御払い下げ願い」なる文書に再び惣助の名前が見える。
この文書には「黒宮浅右衛門、平野金四郎、黒宮惣助、吉川宗四郎」の名前があるが、「願い」の末尾に「本字総連署をもってこの段願い奉り候」とあるから、これも「総代」業務の一環としてなされたものだろう。
さて、この頃の惣助は葬式づいている。3年前には妻のくにに死なれ(享年29)、そして、前年の大晦日には母つかに死なれ(享年73)、この年は正月も何もなかったことだろう。
この時の家族構成は、
戸主:惣助(48歳)
妻:津た(26歳)
長男:惣八(13歳) 姉:くま(59歳)
長女:つるゑ(1歳) 姉:なか(50歳)
注)最初の妻くには22年に死亡。翌23年津たと再婚している。長女つるゑは津たの子である。津たについては次段落で述べる。 目次へ
10.
蛇足ながら、
明治の頃に何軒の黒宮が山路にいたのかを示す資料を見つけたのでここに記す。
文書の表題は「海西郡川治村大字山路番戸」である。
2番戸 黒宮浅右衛門 17番戸 黒宮一平
甲2番戸 黒宮京松 甲17番戸 黒宮嘉七
(5番戸 伊藤甚兵衛) 乙17番戸 黒宮博
甲5番戸 黒宮なか 乙17番戸 黒宮許三郎
6番戸 黒宮惣助 (丙17番戸 渡辺嘉七)
10番戸 黒宮よね 21番戸 黒宮栄五郎
11番戸 黒宮嘉助 88番戸 黒宮紋七
以上12軒の「黒宮」が記されているが、17番戸の一平から許三郎の例を見るとどうも、同一の敷地に住んでいる場合は、甲、乙、丙を番戸の前につけていたように思われる。とすると、5番戸の「黒宮なか」と伊藤甚平さんの関係は?
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